■愛国心/ ヨナ書1:14~2:10 ヨナ、イスラエルの国粋主義的な預言者。 神よりも自国の安全と未来を優先した預言者。 だからと言って、神は彼を諦めたわけではない。 どこまでも、どこまでもヨナを宣教の器として追いかけた。 創造主からこれほど追いかけられて頼りにされるとは、なんという果報者であろうか。 小国イスラエルは常に列強大国の影に怯え続けた。 アッシリヤ帝国の首都ともいえるニネベという町。 この町の罪が神の前に立ち昇ったが、主はニネベを滅ぼすことを惜しまれた。 そこには12万人以上の民が暮らしていたからである。 ニネベの壊滅を願うヨナは主と主の計画から逃げた。 ヨナは自国の未来に大きな不安を感じていた。 王も政府も国民もヤハウェから離れ、北の帝国の脅威は現実となりつつあった。 ニネベを思いやる主の計画は到底受け入れられなかった。 「ニネベに行って悔い改めを促せ。そうでないとニネベを滅ぼす。彼らの悪は赦されない。」 主の言葉にヨナは確信した。 死んでもニネベには行かない。 だから逃げた。 だが、神はどこまでもヨナを追い続けた。 逃げた筈だったが逃げ切れなかった。 挙句の果ては海に投げ込まれ、大魚の腹で死を覚悟した。 だが、それさえも主の御手の中だった。 逃げれば逃げる程、神の面前に向かってしまう。 私自身もそうだった。 嬉しい様な悲しい様な、相反する思いが交錯し現実面では何ともほろ苦かったし、苦しかった。 当時、まるで自分はヨナの様だと思った。 だからヨナが大好きだ。 時はリオ・オリンピック真最中。 目覚ましい日本選手団の活躍で、センターポールの日の丸を見るのはやはり感動である。 そして君が代の国歌が流れる。 銀でも銅でも選手たちの汗と涙の結晶である。 彼らは個人で厳しい練習を重ねてきたが、試合に臨むことは国の代表を意味する。 日の丸を背負った途端、普段では考えられないプレッシャーは重責となる。 遠く離れた故国の民はLIVEで選手の躍動する姿を見ている。 特にこの期間、「愛国心」が剥き出しになるのが不思議だ。 四年の中でたった二週間余りの愛国者かも知れない。 何となく右寄りになった様に感じないわけでも無いが、「ま、いいか」程度である。 つまり、大した愛国者ではない。 国歌、国旗問題に関して様々な意見も気持ちもある。 そういう問題に対して、自由にものが言えない時代、終戦から6年した頃小学校に上がった。 覚えていることは「とにかく貧しかった」ことだけ。 国歌、国旗問題に関して逃げられない次元に置かれてから、敢えて答えるとすればアジアへの長期に渡る侵略時代があり、そして太平洋戦争開戦に至らしめた経緯がある。 時間が幾ら経ったとしても消えない事実。 戦後70年を越しても今だ、許されていない過去と現在。 そしてこの国の数百万の戦争犠牲者、負傷者、世代を超えて苦しむ人々。 特に原爆被害に関して何等の代償も求められない不条理。 しかし、耐えて生きた人々は果たして国歌を恨み、国旗を引きちぎったろうか。 やはりこの国民は日本を、大和の国を愛している。 それが愛国心というものかも知れない。 国歌の下に、国旗の故に、この国が罪を犯したのではない。 時代の中で過剰な傲慢と誤った愛国心を駆り立てた果ての行動だったとしたら、そういう過去を否定せず、引き摺って生きることも勇気だと思う。 心の中にある複雑な感情が消えずとも、視線はこの国の平和な未来である。 決して再びの過ちを犯してはならない。 日の丸を見て、君が代を聞いて騒ぐ血は、単なる感情でも生理的衝動でもない。 海に囲まれ緑と水の豊かな自然を蓄えたこの日本を愛している。 地震の巣窟のような地であり、自然災害に見舞われ続けているが愛している。 一方、まこと唯一の神で出会い、「汝、殺すべからず」「汝、隣びとを我が身の如く慈しめ」と仰せられる方に背を向けることは出来ない。 自国を愛しつつ、キリストという愛の神に出会った者であるならば。 神か、国か。 信仰の面で神、心情の面では国、どうして二者択一出来ようか。 ヨナは国を選んだ。。。 私は、あなたは、何を選ぶ? 『あなた方は、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストに根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。』コロサイ2:6~7 まことに 「安けさは川の如く こころ浸すとき 悲しみは波の如く わが胸満たすとき すべて安し み神 共にませば」 逃げるのでなく、主に向かう道だけが平安と平和の道である。
ヨナ、イスラエルの国粋主義的な預言者。 神よりも自国の安全と未来を優先した預言者。 だからと言って、神は彼を諦めたわけではない。 どこまでも、どこまでもヨナを宣教の器として追いかけた。 創造主からこれほど追いかけられて頼りにされるとは、なんという果報者であろうか。 小国イスラエルは常に列強大国の影に怯え続けた。 アッシリヤ帝国の首都ともいえるニネベという町。 この町の罪が神の前に立ち昇ったが、主はニネベを滅ぼすことを惜しまれた。 そこには12万人以上の民が暮らしていたからである。 ニネベの壊滅を願うヨナは主と主の計画から逃げた。 ヨナは自国の未来に大きな不安を感じていた。 王も政府も国民もヤハウェから離れ、北の帝国の脅威は現実となりつつあった。 ニネベを思いやる主の計画は到底受け入れられなかった。 「ニネベに行って悔い改めを促せ。そうでないとニネベを滅ぼす。彼らの悪は赦されない。」 主の言葉にヨナは確信した。 死んでもニネベには行かない。 だから逃げた。 だが、神はどこまでもヨナを追い続けた。 逃げた筈だったが逃げ切れなかった。 挙句の果ては海に投げ込まれ、大魚の腹で死を覚悟した。 だが、それさえも主の御手の中だった。 逃げれば逃げる程、神の面前に向かってしまう。 私自身もそうだった。 嬉しい様な悲しい様な、相反する思いが交錯し現実面では何ともほろ苦かったし、苦しかった。 当時、まるで自分はヨナの様だと思った。 だからヨナが大好きだ。 時はリオ・オリンピック真最中。 目覚ましい日本選手団の活躍で、センターポールの日の丸を見るのはやはり感動である。 そして君が代の国歌が流れる。 銀でも銅でも選手たちの汗と涙の結晶である。 彼らは個人で厳しい練習を重ねてきたが、試合に臨むことは国の代表を意味する。 日の丸を背負った途端、普段では考えられないプレッシャーは重責となる。 遠く離れた故国の民はLIVEで選手の躍動する姿を見ている。 特にこの期間、「愛国心」が剥き出しになるのが不思議だ。 四年の中でたった二週間余りの愛国者かも知れない。 何となく右寄りになった様に感じないわけでも無いが、「ま、いいか」程度である。 つまり、大した愛国者ではない。 国歌、国旗問題に関して様々な意見も気持ちもある。 そういう問題に対して、自由にものが言えない時代、終戦から6年した頃小学校に上がった。 覚えていることは「とにかく貧しかった」ことだけ。 国歌、国旗問題に関して逃げられない次元に置かれてから、敢えて答えるとすればアジアへの長期に渡る侵略時代があり、そして太平洋戦争開戦に至らしめた経緯がある。 時間が幾ら経ったとしても消えない事実。 戦後70年を越しても今だ、許されていない過去と現在。 そしてこの国の数百万の戦争犠牲者、負傷者、世代を超えて苦しむ人々。 特に原爆被害に関して何等の代償も求められない不条理。 しかし、耐えて生きた人々は果たして国歌を恨み、国旗を引きちぎったろうか。 やはりこの国民は日本を、大和の国を愛している。 それが愛国心というものかも知れない。 国歌の下に、国旗の故に、この国が罪を犯したのではない。 時代の中で過剰な傲慢と誤った愛国心を駆り立てた果ての行動だったとしたら、そういう過去を否定せず、引き摺って生きることも勇気だと思う。 心の中にある複雑な感情が消えずとも、視線はこの国の平和な未来である。 決して再びの過ちを犯してはならない。 日の丸を見て、君が代を聞いて騒ぐ血は、単なる感情でも生理的衝動でもない。 海に囲まれ緑と水の豊かな自然を蓄えたこの日本を愛している。 地震の巣窟のような地であり、自然災害に見舞われ続けているが愛している。 一方、まこと唯一の神で出会い、「汝、殺すべからず」「汝、隣びとを我が身の如く慈しめ」と仰せられる方に背を向けることは出来ない。 自国を愛しつつ、キリストという愛の神に出会った者であるならば。 神か、国か。 信仰の面で神、心情の面では国、どうして二者択一出来ようか。 ヨナは国を選んだ。。。 私は、あなたは、何を選ぶ? 『あなた方は、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストに根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。』コロサイ2:6~7 まことに 「安けさは川の如く こころ浸すとき 悲しみは波の如く わが胸満たすとき すべて安し み神 共にませば」 逃げるのでなく、主に向かう道だけが平安と平和の道である。