■ 弟子道 其の弐 / ヨハネ6:58~69
中世ヨーロッパには騎士道があった。 その精神的支柱は聖書であった。 鎌倉時代から江戸時代に掛けては武士道があった。 こちらの精神的支柱は儒教であった。 ならば新約聖書における弟子道はどうだろう? こちらは騎士でもなければ武士でもない。 生涯、弟子であって師ではない。 キリストの僕であって、主人ではない。 だから、キリストの弟子に徹底して生きることである。 支柱はキリスト・イエスである。 他に目指すものなどない。 目指すはキリストの弟子を養い育てることのみ。 キリストの弟子を養育するために必要なものは? キリストという方を知ること、のみである。 栄光も栄誉も無い。 だからこそ、弟子に成り手がいないのか? かも知れない。 弟子の前には常にイエスがおられる、それがすべてである。 キリスト者としては目標が実にシンプルで明快だ。 自分云々を考えないのだから、ある意味非常に気楽である。 イエスさまだけを見ていればよい。 他人の目と口を気にする必要など全くない。 つまり神だけを見て生きる、である。 マタイ28書の最後にイエスの「大宣教命令」と教会が位置づけた、言葉がある。 「あなた方は出て行って、すべての国の人々を弟子(キリストの)としなさい。バプテスマを授け、わたし(イエス)が命じておいたすべてのことを守り行うように、彼らに教えなさい。」 これは大宣教命令と言うよりも「キリストの弟子養育命令」だと思う。 クリスチャンという呼び名は「あいつらはイエスにそっくり、からきしイエスに染まった様な連中だ。生き方考え方、あいつ等はキリストのやから(輩)だ。」と、シリヤはアンテオケの町の人達から呼ばれたのが最初である。 良い人、正しい人、信頼される人、クリスチャンらしい人、これらは目標ではない。 目標ではないが、御旨なら主がそれを為してくださるだろう。 イエスと生きる人生の結果として、である。 だから目標ではない。 目標は日々、イエスに生きること。 イエスがいわれた。 「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」ヨハネ6:57 これを聞いたイエスの弟子達が呟いた。 「何と酷い言葉だ。こんな言葉を誰が聞いていられようか。」 そして彼等はイエスの前から去って行った。 彼らは、言葉の表面だけなぞってイエスを理解したと考え、真理は悟れなかった。 この場面、それまでイエスを慕ってついて来た者達の多くが、イエスを諦めて立ち去った。 果たして、以降の時代の中で、どれ程の人々が同じようにしてイエスを諦め、教会から去って行ったのだろう。 人々がイエスを知ったから去ったのではない。 イエスを知りきれなかったからである。 イエスは使徒達を振り向いていわれた。 「まさか、あなた方も離れたいと思うのではないでしょう。」 私は昔、クリスチャンになってしばらくの間、本当にイエスから離れたいと思った。 来た道を間違った、と思った。 道を戻れるものなら、戻りたいとも思った。 そうやって悶々と過ごした時間は短くはなかった。 だが、振り返っても戻る場所は無かった。 あのモーセの様にエジプトの富と栄光に、永遠の価値を見ることが出来なかった。 モーセが戻ったのは神の民と苦しむ道だった。 結局、私が戻ったのは聖書とキリストの前だった。 ペテロがイエスに答えている。 「主よ、私たちが誰のところに行きましょう。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。」 そう、幾らこの世に未練があっても、その先に永遠は無い。 キリストに生きる道だけが神の国、永遠へとつながっている。 この世の楽しみ、この世の宝に埋もれようとも、その先に道は無い。 今、という時の先に何も無い、のである。 人生でイエスに見つけられた者、イエスに出会った者は、この世の宝に比較出来ない程の祝福を手にしたのである。 どんなことがあっても、それを手から放してはいけない。 キリストだけが永遠だから。