■ 見えない理由(わけ)
イエスがよみがえられた日の夕方近く、エルサレムからエマオの村へと急ぐ二人連れがあった。 彼らはイエスの弟子であっが、早朝に起こったイエスのよみがえり の出来事が信じられず、そのことで話は尽きなかった。 陽が落ちる前にエマオに入るべく、沈みかけていた夕日に向かって歩を速めた。 すると、いつの間にか一人の男が彼らに寄り添うようにして歩きながら、話しかけてきた。 「歩きながら、二人で話し合っているそのことは何のことですか?」 すると二人は立ち止まって、暗い顔つきになって答えた。 「エルサレムに居ながら、近頃起こった出来事をあなただけ知らなかったのですか?」 すると、その人は興味深そうに聞き返した。 「どんなことですか?」 ここから弟子たちは、ナザレのイエスに関して説明を始めた。 弟子達がどれほどイエスに期待していたか。 イエスは行いにも言葉にも、力ある預言者だった。 イエスこそ、イスラエルを贖ってくれると望みをかけていたこと。 だが、ユダヤ人指導者達はイエスを十字架につけて殺してしまったこと。 どれもこれも彼らの心から一切の希望を取り去る結末だった。 だが、二人の弟子は急に現れて会話に加わった者がイエスだとは知らなかった。 話をし、顔を見ながら肩を並べて歩く三人であったのに。 いったい、こんな事が起こり得るのだろうか。 彼らは複数年、毎日イエスを仰ぎ、声を聴いていたのに、見分けがつかないなんて。 起こり得る、と私は思う。 先ず弟子たちにしてみれば、イエスは殺され、死んで葬られたという動かせない事実があった。 覆しようがない出来事だった。 すると今、肉眼で見ている景色は、過去よりも最優先の事実となる。 彼らのイエス像は圧倒的な出来事によって、もう思い出の中のイエスでしかなかった。 隣の男がイエスと似ているなぁ、などという余裕は持ち得なかった。 聖書は言う、「二人の目はさえぎられていて、イエスだとは分からなかった」 人間とは各も簡単に肉眼を遮られるのであろうか。 やがて三人は薄暮のエマオへ到着した。 だが、見知らぬ人はまだ先へ行く気配である。 心騒いだ弟子たちは、彼を引き留められずはいられなかった。 「もう夕刻ですから、どうか一緒に泊まり食事をしていってください。」 そして食卓が用意された。 すると見知らぬ人はパンを取ると祝福し、裂いて二人に手渡した。 その瞬間、彼らの眼が開かれた。 「あっ、主だ!」と二人の唇から声が発せられる寸前、イエスは二人の眼前から消えた。 「ああ、何ということだ。私たちは道々話し合っていた時も、聖書を説明して下さった時も、心は内に燃えていたではないか・・・」 やおら立ち上がると、二人は今日の午後発ったばかりのエルサレムへの道にあった。 兄弟姉妹、私たちが信じる主は、このイエスである。 この不思議なイエスである。 どうして信じられたか? それは、この方だから、信じられるのだ。 キリストを信じる心があれば、彼はいつだって入ってこられる。 子供の様に素直な心で迎えるなら、誰の心にもやってこられる。 理屈好きな人間たちには何とも馬鹿げたこととしか映らないだろう。 だから、救われる人が少ない。 神にまかせるしか救いの道はないのだ。 人間は何をどうしたとしても、神の理想には絶対に届かない。 見ることも触れることも出来ない、そう私たちはあまりに罪があり過ぎて・・・ だが、こんな者にもイエスご自身から入って下さったので、彼を信じることが出来た。 信仰とは頭では出来ない。 信仰とは目や耳でも出来ない。 時として、目も耳も無いくらいの方がいい。 なぜなら、人間の感性が邪魔する時があるからだ。 人の感性は直ぐに感情とつながる。 そうすれば心が求めるものよりも強力に感じるだろう。 先ず心である。 霊とまことは人間の中心である。 それを気づかせてくれたのはイエスである。 「真の礼拝者たちが、霊とまことによって父を礼拝する時が来る。 今がその時である。 神は霊だから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければならない。 嘘偽りなく、こころから、真実を尽くし、唯一まことの主を礼拝する。 仮に一週間の生活が揺れたにせよ、嵐や波風が立ったにせよ、罪の泥沼から引き上げ、罪なき血潮でこの身と魂を洗ってくれた方により、霊とまことによって礼拝できる。 キリストによる新生、この一つだけが人を救い、人を変える。 我らの手柄、栄誉、努力、精進、キリストの前にはすべて塵芥に過ぎない。 人は何一つ、キリストの前に誇るものなどないことを知ろう。