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■ イエスがいなければ/マタイ11:15~30

「イエスがいなければ何もできない」と歌い、「イエスがいなければ生きるすべなし」と歌う。 まことにそのとおりである。 まったく疑う余地なし。 キリスト馬鹿にならせていただいて間違いなかった。 だが成りきったわけではない。 糸の切れた凧の様に、どこか引っかかっている部分がある。 牧師として礼拝で講壇に立つ。 会衆を見渡して瞬間、思う。 イエスがいなければ、自分もそうだし、この人々だって此処にはいない。 当たり前のような顔をして毎週の礼拝に臨んでいるが、すべてはイエスがおられるからだ。 おられたのではない、おられるのだ。 今、生ける主はこの場所に人々の心に、そして天におられる。 私達にとってあまりにもシンプルで、至極単調であるみたいだけれど、地上に生きる人々とは全く違う次元である。 だが、時としてしっかり心に思い返さなければならないと思う。 イエスがいなければ、すべてが無いことを。 牧師は神から祝福を山ほど賜っている。 個人的に思っていることではあるが、その中でも特に大きな恵み・・・ 先ず、イエスをいつも考える、思いを馳せる等々の祝福。 次にイエスに出会えることを待ち望んでいられる祝福。 三つ目にイエスといつも一緒だと思える祝福。 思い出してみた。 弟子達はイエスが捕えられた晩からイエスを捨てて逃げてしまった。 逃げたが彼らは元の人生に戻ったわけではない。 彼らはイエスが健在でいた頃と同様に、仲間同士だった。 イエスがよみがえられて弟子の前に現れたにせよ、何かがピンと来たわけではなかった。 気分は空虚そのものだった。 私は、あの時点の弟子達の気持ちが妙に共有できる。 これからどうやって生きようか・・・。 あの朝、ペテロは仲間に声を掛けた。 「俺は漁に行く。」 そう、それ以外頭に浮かばなかった。 蘇られたイエスに出会ったが、未来が見えたわけではない。 内は、実にけだるい・・・のである。 三年間、共に生きてきたイエスはもう居ないから。 クリスチャンとて、毎日がキラキラ輝いているわけではない。 人間である限り悩みもあり、低調な時もあり、無言になりたい時もある。 だが、イエスは私と共におられる。 ここが違うのだ。 イエス、イエス、イエス、そう彼だけは永遠に希望の星なのだ。 この御名だけが勇気をもたらす。 この御名だけでお腹も胸もいっぱいになる。 33歳でクリスチャンになった頃、よく頭を掠めた思い。 「ああ、何とも遅蒔きだなぁ」 44歳から神学校に入った頃、思ったこと。 「すべてが遅蒔きなんだよなぁ。」 牧師に招かれたとき思ったこと。 「いいかげんにして、さっさと退散したい・・・」 そんないい加減な牧師も22年経った。 少なからずイエスに導き、洗礼も授けることが出来た。 今、思う。 「イエスさま、ありがとう。よくぞ見捨てずにいて下さった。」 やっぱりイエスが居なければ、生きる術なし!

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