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■ その日暮らし

私はある時から「その日暮らし」に拘ってみたいと思った。 もともとそういう性質(たち)の人間なのかも知れないが、現実は決してそうならなかった。 ここでいう「その日暮らし」とは、食べ物に事欠く生活のことではない。 日々の刻一刻の中で、敢えてイエスを見上げていないと、先に進めないような環境に自分を置いて生きるべきかも知れないと思ったのだ。 人間は時間や金銭に余裕が出来ると、あまり良い方向へ行かない様な気がする。 だから「私はいつもイエスを思っていたい。」という意識が増し加わることは、主からの恵みと祝福に尽きると思う。

使徒行伝3章に、生まれつき足の萎えた男の話がある。 彼は毎日、神殿の門のところに置いてもらい、参拝客から小銭をめぐんで貰い、その日暮らしをしていた。 誰かに運んで貰わなければ生きられなかった。 誰かの哀れみにすがっていなければ、食べられなかった。 彼にとっての宮は生きるための道具、の様な場所でしかなかった。 多くの参拝者が集う、だから彼はそこに置いて貰った。 非常に気の毒な話である。 だが、ある日の午後、彼の人生に思いもかけない光が差し込んだ。

ペテロとヨハネが祈りのため宮に上って来たとき、男はいつもの様に施しを求めた。 するとペテロが男の目を見つめて言った。 「私たちを見なさい!」 何十年も座りっきりだった彼の人生で、初めて聞いた内容の言葉だった。 大体の人々は男と目を合わすことなど望まなかった。 第一、彼が人々に望んだのは生活のための金だけである。 だから期待心を覗かせながら、男は思わず二人に目を注いだ。

ペテロの言葉は言った。 「私には金銀はない!だが私に有るものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい!」 そしてやにわに男の右手を取って立たせた。 すると、たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって真直ぐに立ち、歩き出した。 ある意味、驚愕するほど恐ろしい場面である。

生まれついてこの方、一度も立てなかった、歩けなかった男が立ち上がり、飛んだり跳ねたりしているのだ。 一番びっくりしたのは誰あろう、ペテロだったかも知れない。 だが、神の力が働いたのは、ペテロと言う人物そのもの故ではない。 ペテロが信じ、彼に内在するイエス・キリストが男を立たせたのである。

私達は勘違いをしていることが少なくない。 私やあなたが、キリスト者に相応しい品位のある、善良で、真面目で、非難されるところの無い云々・・・ではない! イエスをキリスト(救い主)と純粋に信じきる、信頼しきる、寄り縋るところにキリストが人を通して働かれるのである。 その方の他に必要なものなど、本当は無いのである。 他のものを見限れない、断ち切れない弱さのゆえに、キリストは働かない、働いて下さらないのだ。

私達は目に見えるところに心奪われ、すがってはならない。 人間は常に自分の目に映るものを自己の価値基準の対象にし、ランク付けしている。 無意識のうちに、人間の内側でそれらは勝手に働いている。 だから、本当に見ていくべき方が見えない。 その方こそ、肉眼では捉えられないキリスト・イエスである。 自分の中で内において、キリストが常に一番であるよう切に求めたい。

「私に有るもの」ペテロにとってキリスト・イエスこそ、彼における「てっぺん」だった。 そこに希望ある限り、キリスト者の信仰は死なない。 いつも生き生きと脈動する。 生ける神は人の中で黙ってはいない。 その人を動かし、生ける水を注ぎ続ける。 だから、その人は渇かない。 信仰は息づく。 「私に有る方、ナザレのイエス!」 果たしてあなたの中で、あなたの内で、イエスはどれだけの位置と領分を得ておられるだろうか?

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