■ 宴の肴
- マルコ6:14~29
- 2016年2月7日
- 読了時間: 3分
ローマの総督ピラトほどに有名ではないが、ヘロデという名は知る人ぞ知る存在である。 ヘロデ・アンテパスが今回の主人公であるが、人間性は父ヘロデ大王から引き継いだ。 権力に関しては政争の風向きを見逃さず、弱者を虐げ強者にへつらい、保身のためなら例え兄弟であれ踏みにじった男である。 バプテスマのヨハネは仮に相手が王であれ、権力の最高位であれ、歯に衣着せぬ言葉で罪を指摘した。 ヘロデが彼の弟の妻「ヘロデヤ」を横取りしたことに対しても、ヨハネは「王よ、あなたのしていることは律法に適わぬことです。」と直言した。 この件で怒ったのはヘロデ以上に彼の妻ヘロデヤだったことも考えられる。 そのためヨハネは捕えられ、牢につながれた。 だが、ヘロデはヨハネの話に興味を示していた。 ある意味、自分のことを何と言われようと、真直ぐに罪を指摘しつつ、悔い改めを説くヨハネには好感さえ覚える節もあったと思われる。 ヨハネの命など彼の手中にあり、その気になれば王の一声で殺せた。 ヘロデの誕生日、重臣、千人隊長、おもだった人々が招かれ、盛大な宴が持たれたとき、ヘロデヤの娘、サロメが宴の肴に踊りを披露した。 宴席の人々は大喜びであった。 当然ヘロデとて大満足であった。 王はサロメに言った。「良い舞を見せてくれて嬉しいぞ。さあ、そちに何を取らせようかな。何なりと申してみよ、欲しくばこの国の半分さえも与えようか。」 宴席の人々も、さぞかし喝采を送ったであろう。 サロメは母のところに走り寄って、「母上、私は何を所望したらよろしいでしょうか。」と聞いた。 ヘロデヤは口元に笑みを浮かべ、娘に言った。 「バプテスマのヨハネの首」 聞いた娘は王の前に出て、それを伝えた。 ヘロデはそれを聞いた瞬間、それまでの酔いが覚めたであろう。 聖書はいう。 「王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを受け入れた。」 ヘロデはキリスト者ではない。 だが、ここに私たちキリスト者にとって耳の痛いことがある。 私たちでさえヘロデの轍を踏んでしまうのだ。 聖書を学び、祈り、主をたたえて礼拝する日曜日。 身も心も洗われる思いに浸る。 そして月曜日、誰にもこの世が待っている。 思わぬ事態も待っている。 家庭、職場、車の運転中、そしてあらゆる場所で・・・ 昨日、主をたたえた心と同じでない自分がひょいと顔を出すのだ。 何がそうさせるのか? 自分の心は常に一枚岩である筈なのだが、目の前に世びとが居て、世の考えで、世の目で自分を見ている。 そして世は、彼らの納得できる返事を私に対して待っている。 そして自分は・・・意図せずに・・思わず心をすり合わせてしまう。 人間とは各も弱い。 ペテロを笑えない。 トマスを笑えない。 ヘロデを洗えない。 そしてイエスは私をあきらめない。 いっそのこと、諦めてくれたら、本当に楽なのにと幾度思ったことだろう。 マルコ11:21~22 「ペテロは思い出してイエスに言った。先生、ご覧ください。あなたの呪われたイチジクの木が枯れました。」 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。」 イエスさまのことばにいつも救われる。 イチジクの木は呪っても、人間を呪うことはされなかった。 十字架の上で、苦しみの中で、イエスは天の父にとりなしておられた。 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分ではわからないのですから。」 (ですが主よ、私には分かっているのです。。。。だから余計につらいのです)
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