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■ 2015クリスマス・天父の御顔 / ルカ2:1~20

イエスがお生まれになる際、二つのルートから彼を見に駆け付けた人たちがあった。 一つはヘロデ王を中心とする宮殿ルートである。 星を頼りに遠方からたどり着いた博士たちであったが、事情を知らずに思わずヘロデに謁見し、「ユダヤ人の王がお生まれになる場所はどこですか?」と聞いた。 事の次第をようやく察知したヘロデ王もエルサレムの人たちも恐れまどった、と聖書はいう。 瞬間、ヘロデは王位を脅かす、その子の誕生と存在に対し抹殺の炎が燃え上がる。 神は博士達を御子の居場所へと導くも、その御手によりヘロデの魔手から逃れさせ窮地を脱した。 マタイ伝は御子の誕生をこの様に語っている。 宮殿ルートに財と力はあったが、救い主の誕生を拒否するばかりだった。

次は荒野ルート、ルカ伝である。 羊飼い達は御使いの突然の知らせに驚き恐れたが、彼らは喜んで駆け付け降誕したばかりの御子を拝した。 彼らは御使いが語ったとおりだったと神を崇め、賛美しながら帰って行った。 荒野ルート、そこには金も地位も権力もないが、御子の誕生を心から喜ぶ人々がいた。 このようにしてイエスを迎えた世界は既に両極端であった。

二週前、マリヤの信仰を考えた。 先週、ヨセフの信仰を考えた。 両者共に神から名指しで選ばれた人たちであった。 私たちが幾ら彼らを学んでも、彼らの問題を共有できない。 人類史上、たった一度、後にも先にも無かったことを共有出来る人もいないし、共有しようと考える方が理に適っていると思うべきか。 仮に、殆どの人が共有できなくても、神にとって全く問題なしであると思った。 神は世界にたった一人でいいから主に従う人がいるならば、主のご計画は達成されるのである。 但し、聖書に登場する人物を、単に他人事、別世界のことと考えるなら、私たちは霊的に目を閉ざし、耳を閉ざす者、遂には心閉ざした者でしかないことを知るべし、である。

聖書は神のことばである。 神のことばは私たちを主の前に導かれる。 その瞬間、「御ことばの戸が開くと光が差し込み、愚かなる者に悟りを与える。」(詩119:130)世界が訪れ、罪びとは救いに導かれる。 実にすべての人は皆、罪を犯したのである。(ロマ書3:23) 人間の内に死ぬまで住み着いている原罪とは、神から離れる性質である。 神から離れれば自ずと自己中心になる。 自己中心だから神から離れたのではない。 神から離れたから自己中心なのである。 まことに人は生まれついた時から罪びと(神から離れている)である。

天父の苦悩とは、神から離れた人類に救いに与え、罪から解放し、本当の自由を与え、人みずからの選択で主を拝する、真の礼拝者が起こされることだった。 イエスはいわれた。 「やがて真の礼拝者が霊とまことによって父を礼拝する時がきます。今がその時です。父は このような人々を礼拝者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって、礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23~24)

クリスマスを如実に言い表す聖書のことば。 「神は実にそのひとり子をお与えになったほどにこの世を愛された。それは御子を信じるものが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16

教会のクリスマスは複雑な感情が交錯する。 どう考えても痛みと苦しみ、悩みと呻きがつきまとう。 主を愛する思いが強ければ強いほどに。 しかし、創造主の究極の愛は確かに地に降り、届いたのである。 神の愛は地上に降り注いだ。 惜しげなく、溢れに溢れて、更には濃い中身を伴って、私たちと人生を潤した。 確かに『大切なものは目には見えない。』『サン テグジュペリ』 しかし、見えない方が見えたのがクリスマスである。

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