■ I am the WAY (私は道である) / ヨハネ13:34~14:6
主イエスの「受難の幕開け」はいつだったか。 それは最後の晩餐が終り、ユダが部屋を後にしたときであった。 イエスがいわれた、「今こそ人の子は栄光を受けた。また、神は人の子によって栄光を受けた。」
我々は通常、その場面をどう表現するだろう。 苦しみの始まり、苦難の始まりとでも言うだろう。 だがイエスは「神が栄光を現された。」とか「人の子が栄光を受けた。」といっておられる。 えらい違いである。 どうしてそれほどの差が出るのか。 人間は難儀を優先して捉え、イエスは大願成就と捉えた。 何十世紀も昔に語られた約束の成就が来た。 それは、神のご計画が遂に完成するに至ったのだ、という意味からである。
イエスは、弟子達にいわれた。 「わたしは、あなたがたに新しい戒めを与えよう」、主は敢えて 新しい戒めと位置づけた。 どうしましょうか?でも、アドバイスでもない。 戒めである。 「そこに生きなさい。こう生きなさい。」である。
「あなたがたは互いにアガペーしなさい。」
アガペーとは至上の愛である。 無償、無条件、無限、理由も理屈が介在せぬ愛である。 凡そ人間が価値としない愛でもある。 だが一度アガペーが表面化した場合、人々はこぞって賛美する。 そしてアガペーは非常なる痛みと犠牲が伴うであろう。 そこには顧みも報いも期待しないし、意識もしない。
受ける側?無頓着かも知れない。 もしかして地べたに額をつけて感謝するかも知れない。 しかし何であれ、我、意に介せず、である。
イエスが弟子達にアガペーを仰せられたのであるなら、教会として聞いたのであり、更 にキリスト者として聞いたのである。 他人事でなく、一人ひとりがキリストから自分へと聞いたのである。 それは ある意味で厳しい世界かも知れないが、実に崇高な世界へと導かれる。
我らはキリストにしがみついてアガペーを戴かないと、他者に分けられないものかも知れない。 だが、アガペーを目的にしてはならない。 ただ、イエスに密着して生きることだ。 余りに無私で、深く謙遜で、無限の広さがアガペーなのだ。 私たちが救われたのは、アガペーの愛だったからだ。 イエスが十字架で両手を広げ、釘で打ち付けられたとき、アガペーは初めて形になった。
「I am the WAY」(わたしが道である) 「エゴー エイミー、ヘー ホドス」(ギリシャ語) 私はクリスチャンになった37年前から知っていて、「いいことばだなぁ」位は感じていたし、御ことばの額も飾ってあった。 今更であるが、これは極めて深い意味があり、同時に実にシンプルな言葉だと思った。 素直な心で聞けば良い。 イエスが道なのである。
「わたしが道である。」 この言葉が語られたのは、「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」と言われた直後である。 ペテロもトマスも、イエスが一体何処へ行くのか、果たしてどんな道なのか、分からなかった。 彼らは主に問うた。 「主よ。どこへいらっしゃるのか、私達にはわかりません。どうして、その道が私達に分かりましょう?」 主がいわれた。 「わたしが道である」