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■ わが命は主の後手に / 第一列王記19:1~8

ヒーロー(英雄)は常にヒーローであり続けることは出来ない。 人間である限り、弱点も限界もある。 仮に人間でなくても同様である。 スーパーマンでもスパイダーマンでも、バットマンでも弱点はあった。 負けるときがあった。 だから見ていてハラハラドキドキするし、私達はヒーローを好きになる。

聖書の登場人物の殆どは弱点を晒している。 但し、ヤコブの息子のヨセフは格別だ。 彼そのものは腕力が弱くても、心と生き方は神の前に常に正しい人であり続けた。 完全に別格な存在だった。 エリヤ・・信仰と勇気、決断と人生において、彼の右に出る者はいない。 突出した人物だった。 凄まじいまでの働きをした。 神の前には忠実で謙遜そのものだった。 カルメル山で450人のバアル(カナンの地における豊穣神)の預言者との戦いでは、主のみ力を100%信頼し、彼らを打ち負かした。 そしてカナンの地に3年ぶりの大雨が降った。 ヤハウェの赦しと恵みの雨だった。

そのエリヤが突然、身をくらました。 イゼベルという女(アハブ王の妻)の言葉がエリヤに届いた。 「明日の今頃までに、あなたの命がまだあるとしたら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」 強烈な脅しであった。 それを聞くとエリヤは身をひるがえして荒野に入り、主に向かって言った。 「主よ、もう十分です。私の命を取ってください。私は先祖達に勝っていませんから。」

私はエリヤという人と行動に、彼の信仰姿勢と行動に惚れた。 そして、この場面、彼が見せた側面の僅かな弱さを知り、更に好きになった。 ここまで3年間、しもべの如く、神に仕える者として生きた。 そして、彼の内で火が消えたのか。 決定的な理由は分からない。

私達も時として呻くだろう。 「もう十分です。。。」 しかし、エリヤと違う点がある。 十分とは20%、30%仕えたから十分やりましたとは言わない筈だ。 4割、5割、頑張ったから十分ではない。 多少大目に見て7分、8分、やりました、であるなら認められるかも知れない。 エリヤは自分の好きなことをしたのではない。 神の栄光が啓示されることと、イスラエルが神に帰属するためであった。

エリヤはエニシダの木の下に横になり眠った。 このまま死ねたらよいのにと思ったかも知れない。 彼は疲れ果てていた。 昨日までの自分ではない、自分になっている。 そういう体験をした人は少なく無いと思う。 もしかして、今そういうところにおられる人がいるかも知れない。

だが、恥ずかしいことではない。 聖書がそれを語っている。 人生には、そういう時が幾つも巡ってくるものだと思う。 「人生とは疲れるものだ。人生とは思うように進まないものだし、人だって思う様に動いてくれない。第一、この私だって神さまの願う様に生きていない。」 頭を上に上げ目を閉じれば、見えない方が囁いてくれる。

聖歌191番 この歌の詩を読みながら作者の心と、彼が置かれた状況を想わずにいられない。

慕いまつる主なるイェスよ 捕らえ給え我を  道に迷い疲れ果てし 弱きしもべ我を

風はつのり夜は迫る されど光り見えず み手を伸べて助け給え 恵み深きイェスよ

胸の内に安きあらず 今か息も絶えなん  近くまして聞かせ給え 愛のみ声我に

答え給え主なるイェスよ 叫び祈る声に

お越し給え立たせ給え 倒れ沈む我を

私達にも、こういう明日が来るかも知れない。 だから、しばらくの後休んでイェスを見上げよう。 イェスだって呻き、苦しまれ、嘆かれた。 「父よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」 第一、主の十字架はご自身のためではない。 私達のためだった。

眠っているエリヤに、御使いが来て彼にさわって「起きて、食べなさい。」と言った。 彼は見た。 すると、彼の頭のところに焼け石で焼いたパン菓子一つと、水が入った壷があった。 彼はそれを食べ、そして飲んで、また寝た。

主のしもべ達、兄弟、姉妹。 主は慈しみ深い。 力も慰めも上から来る。

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