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■ エパタ!(開け!) / マルコ7:31~37

イエスは時として不思議な行動を伴う癒しをされた。 生まれつき目の見えない男性には唾で泥をこね、それを彼の目に塗られ、シロアムという池に行って洗いなさいといわれた。 彼が言われたとおりにすると、目は見えるようになった。 また、耳が聞こえず口のきけない男性には、両耳に指を差し入れ、更に唾をして彼の舌に触れられた。 そしてイエスは天を見上げ、深く嘆息して男に言われた。 「エパタ!」(開け!)。 すると彼の耳が開き、口のもつれも治った。 人々は口を揃えて言った。「この方の為さったこと、みな素晴らしい!」

まじないの様にも思えるが、決してそうではない。 何故なら、私達がそれと同じことをしたにせよ、癒しは起こらない。 理由は・・・イエスがなさった!からである。

そしてイエスは男性の患部の癒しだけを目指したのではない。 彼の両の耳に指を入れ、天を見上げ深くため息をつかれたのは何故か? そしてイエスは彼に向かって「エパタ!」と言われた。 そのこと自体は耳と舌への命令ではなく、男性の全人格が開くようにとの指示であった。 それは一人の男性の人格と魂、霊に対する神のご命令と再創造と治癒力であった。 人の内と外、見える見えない器官といった部位と場所に関わらず、神の「御霊のちから」が一人のひと全体に行き渡らければ、肉体の癒しは起こらないというものである。

先ず、「エパタ」は主のご命令であった。 しかも、御父と御子イエスが一人のために一体となって働かれた。 耳が縛られて音が聞こえなければ、口は言葉を語れない。 罪と限界、そして閉ざされた肉体と魂に対する悲しみと慈愛は、全能の主において栄光とちからがほとばしるのである。 例えば、私達が福音を理解出来るようになったのは、肉の耳が開かれたのではなく、心が開かれ、そのことによって霊的な耳(心の窓)が開いたからである。 そして自分の口で、生来喋ったことのない福音を語るようになった。 これこそ、御霊の神のちから以外のなにものでもないことを認めよう。 21世紀、科学が発達した今の時代、現実において御霊の神は確実にわざを行っておられるではないか。

二つ目、「エパタ」は神の願いである。 イエスは男に向かって、救われよ、癒されよ、と言われなかった。 「開かれよ!」と言われた。 魂が、霊性が、心が開かれよ、と命じられた。 そうすればあなたは癒される! 人は生まれて以来、唯一まことの神に対し、キリストに対しても心は閉じられ、自ずと霊性も心の耳も目も閉じている。 それが罪の力に縛られた世界だった。 そこからの解放はイエス・キリスト、この方以外のものには無い。 すべては「開かれよ!」と仰せられた主の御ちからであり、願いである。

三つ目、「エパタ!」は私達に対する神のチャレンジである。 あの男に向かって「開かれよ!」と叫ばずにいられなかった瞬間は、きっと私達人類すべての者への要望だったのではないか。 私達はどの程度、主に対して開かれているだろうか。 「どの程度?」と書くのも辛い。 「どこまで」「どれくらい」、キリストに対して開かれているだろうか。 キリストはご自身を200%開いてくださった。 ご自身の栄誉も気高さも、いのちも富も位も栄光も、すべてを投げ打って、こんな罪人のために血みどろになって死んでくださった。 果たして私達はどれくらい、主に対して開かれているだろう。 家族どころか、キリストさえも締め出している自分の領域、自分の小部屋の鍵を渡すことさえ出来ずにいるのだろうか。

キリスト者とは、主に対して100%開かれた人と解釈する。 本当の自由とは其処にある。 仮に自分で隠せたとしてもキリストは私の100%をお見通しである。 だのに、隠し通せると思ってしまう自分が情けない。

私の大好きなF・Bマイヤー師はイギリス生まれの素晴らしい「主のしもべ」であった。 彼はキリストとの関係において、非常に敏感で鋭い霊性を要する人だった。 あるとき、ケズイック(大聖会セミナー)から講師として招聘がかかった。しかし、当時のマイヤーは自身と主との関係に陰があり、正面きってキリストに向かっていない自分を見た。それは彼自身の牧会生活でも、表面化している結果を見ていた。 ・・・私はケズイックという聖会の壇上に立つことなど出来ない。私はキリストどころか自分にさえ正直な者ではないのだから・・・ 彼は自分の内面を見たとき、主の前に自らのすべてを晒す必要を感じ、一人山に登った。 そして主に向かい祈った。「主よ、私は自分の人生さえごまかす者です。これ以上、自分の教会の信徒に対しても偽善者として立ち続けることは出来ません。ここに最後に残った私の心の鍵があります。この鍵をお取りください・・・。」

彼はケズイックの大会衆に向かって言った。 「皆さん、キリストは私の手から鍵を取られなかったのです。キリストは鍵ではなく、私の内なる部屋、すべてのドアを取ってしまわれました。神の栄光を遮るものは、心の壁でもドアでもなく、もう何も無いのです。」 このケズイックにおいて5千人の魂が砕かれ、ケズイック全体が聖霊によるリバイバルで突き抜けたのであった。 「この方の為さることはすべて素晴らしい!」

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