■ 今が救いの日 / 使徒の働き16:16~34
人は思う。 「何をしたら救われる?」 「何をすれば天国に入れる?」 何をしたら、何をすれば、と人間は考える。 つまり、人間の行動によって、何かが得られると勘違いしている。 確かに、ことによっては、何かをしたら、かも知れない。 だが、物でもない、金でもない、健康でもない対象であるなら、「何をしたら?」では手に入らない。 そこで人間は宗教に頼る。 そしてやはり考える。 善良、金銭、奉仕、功徳、エトセトラ、すべて己が成果を積み上げることか。
ある青年は、彼の正しさによって永遠の命を手に出来ると考えた。 彼はイエスに問うた。 「先生、永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょう?」 青年の顔をしげしげと見詰めてイエスはいわれたものだ。 「もし、あなたが完全になりたいのなら、帰ってあなたの持ち物をすべて売り払って、貧しい人に分け与え、そのうえでわたしについて来なさい。」(マルコ10章21節) すると彼は悲しげな顔をして帰って行った。
パウロが投げ込まれたピリピの町の監獄。 無実の罪ながら鞭打たれ、小突かれ獄にぶち込まれたパウロとシラス。 その夜、冷たい獄で鎖につながれた二人はキリストに祈った。 祈っていると知らぬ間に賛美の歌がついつい唇から漏れた。 そのとき、二人をつないでいた鎖は解け、獄の扉は開いた。 眠っていた看守がこれを見て、囚人達が逃げたものと思い、自害しようと試みた。 パウロは彼を止め、「死んではいけない。大丈夫、我々はここにいるから。」と言った。 看守は二人にひれ伏して言った。「先生方、救われるためには何をしなければなりませんか?」 パウロとシラスは言った。 「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます!」
何をすればではない。 何もしなくてもよいのだ。 何かをしてはいけないのだ。 ただ、心にイエスを向かえる(信じる)だけである。 人間の行動が救いをもたらすのではない。 救い主の介入だけが人を救うのだ。
聖書を学んだからで救われない。 神の知識を積んだからで救われない。 功徳を積んだ?善人になった?で救われない。 人間の側の云々で、救いは来ない。 人生と自分を幾ら考えて悩んでも救われない。 キリストに向かおう。 イエスが道であり、命であり、救いである(ヨハネ14:6節)。 バカの一つ覚えのように言うが、人が救われる道は彼しかない!!! 愛する兄妹姉妹、だからキリストを心に迎えよ。 敢えてクリスチャンと自負、自認する人にも言おう。 今、イエスがあなたの主ですか?救い主ですか?
人間の難しさ、つまり人は人の力で何かに到達出来ると考える。 人の力で、人の努力で、修練の果てで、救いに出会えるかもと錯覚している。 それこそが人間の原罪でなくてなんだろう。 人間は己の罪に対して目覚めること以外、神の御手は及ばないことを知るべし、である。
マタイ13:15にこうある。 「それは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたし(主)に癒されえることの無いためである。」 私が主導、私が主権、私が主語、私の人生、私が絶対から離れたときに、人間は初めて「かみさま・・」と心から遜って呼ぶのであろう。
だから聖書は言う。 「あなたがたは、確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見ているが、決して分からない。」マタイ13:14 人は己の知識と了見と知恵でキリストには出会えない。
人間が造った宗教はあくまで人間が主体であり、主語、主権である。 しかし、聖書は神が語り、神が書き、神が主語で、神が絶対者であり創造主である。
クリスチャンの誕生はいとも簡単に訪れる。 しかし、その成長は時間も掛かり、戦いもあり、葛藤だらけだ。 人の内で聖霊と人間性が激しく鍔迫り合いするだろう。 それは、あって当然なことだ。 なければ成長も進化もない。 そうやって人が己の弱さと醜さと駄目さを知らされる。 どうしようもない自分に出会うのは、誰だって嫌なものだ。 だがそのとき、「おめでとう!」と私は言いたいし、自分に向かっても言う。 そこでこそ、人はキリストの十字架と勝利を自分の心と身で体験する。