■ キリストと生きる、ということ / マタイ2:13~23
イエスは弟子達に言われた。 ヨハネ14:27 「わたしはあなた方に平安を残します。わたしはあなた方に『わたしの平安』を与えます。わたしがあなた方に与えるのは世が与えるのとは違います。」
う~ん、イエスの平安とは、どんな平安だろう? 通常、私達が考える平安とは・・・・ 何か必要なものが有って、保障されていて、心配がなくて、安心していられる? 家が有って、お金もそこそこ有って、健康に心配なくて、家族や勤務先、近所との人間関係も悪くなく、安心して眠りにつけることが、世びとが考える平安か。 しかし「そうではない」とイエスが言われる平安の中味は・・・
わかり易く言うなら、心配事が有りながらも、浸ることの出来る平安だと思う。 そもそも生きること自体が悩むことであると言うならば、何の為に、どうして悩むのかを考える位の余裕があるなら、先ず一つ目の平安を掴んだのではないだろうか。
自分では、どうにもならないから悩む。 解決の光りが見えないから悩む。 誰もがそうであると思う。 ならば人の手で届かなくても、神には出来るという聖句を受け入れようではないか。 そこが信仰の働く場所なのだから。
イエス御降誕の前と後を考えてみた。 御子が生まれる以前のヨセフとマリヤは、我々が想像出来ない、尋常でない苦しみの日々であった。 彼らは何も出来ず、ひたすら静観して待つだけだった。 静観だけなら消極的であるが、彼らは神を信じて委ねることを求められた。 そのこと自体は実に前向きであると思う。 約一年365日、それは10年間に匹敵する程、長い時間に感じられた筈だ。
そして御子が生まれて直ぐに、激しい危険が訪れた。 ヘロデ王が振り下ろす凶器の刃がベツレヘムの赤子のすべてに下ったのだ。 その直前に神の介入が幼子と両親にあり、危機一髪で難を逃れエジプトへ脱出が果たされた。 その逃亡の旅の苦しさ、辛さは容易に想像される。 生まれたばかりの赤子を抱く少女の様なマリヤ、二人はヨセフが引くロバに乗って危険な長い旅路だった。 しかし、今や両親自分たちで努力することが出来た。 待つことだけでなく、神のことばに参加できた。 主の導きに従って、黙々と行動出来る幸せである。
私達は今、様々なことを通して、主のご計画に参加できる。 誰かの救い、癒し、執り成しのために祈ることは、決して消極的ではない。 祈ることは己の信仰を研ぎ澄まし、他者を愛し、神を信頼する証しとなる。 そこにイエスの平安を得る秘訣がある。