■ 聖霊の住む場所 / ガラテヤ5:13~26
- ガラテヤ5:13~26
- 2014年10月11日
- 読了時間: 3分
あなたは本当に自由ですか? 33歳まで私は自由だと思っていた。 日本人の誰もがそう思っている筈である。 「言いたいことを言い、やりたいことをする、これが自由社会だ。」
そしてクリスチャンになって数年後、私は自分は不自由だったことを知らされた。 ローマ7章からパウロの言葉を、自分の魂で聞いた時だった。 彼は言った。「私はしたいと思う善が出来ないで、したくない悪を行ってしまう。」 何もパウロが泥棒をしたとか、人を傷つけたからではない。 彼は私達よりはるかにモラルの高い生活をしていた。 パウロの悩みは、「神の言葉を優先しないで、自分がしたい事をついつい優先してしまう自分」と嘆いたのだ。 その直後、「私は本当に惨めな人間だ。誰がこの死の体から、私の霊を救い出してくれるのだろうか。」と苦しむ内面を吐露している。
知ろう、私達は決して自由ではない。 言うべきこと言わないで、言ってはならない言葉を吐いている。 他者を傷つけようとしないけど、結果的についつい傷つけてしまうことだって多々ある。 他者と自分に対し、益であり徳である行動を選ばず、かえって逆の結果を招く事をしてしまう。
果たして自由とは、したいことをする、言いたいことを言うことだろうか。 では誰が万人の益、徳となる発言と行動が取れるだろうか。 誰一人、いないと思う。 ただ一つ、自分は「自由どころか不自由だった」と知るべしである。
ここに私達は己の内にしっかりと生き続ける「肉的性質」を認めざるを得ない。 切っても洗っても落ちない肉なる性質、誰がこの死の体から私達を贖い出してくれるのだろうか? ここに耳を傾けるべき示唆がある。 「主キリストのゆえに私は神に感謝します。」ローマ7:25 内受の聖霊の力と助けがあるではないか。 だからこそ、パウロも私達も、クリスチャンはすべて恵みの力を知るのである。 キリストによって救われた人であるならば!である。
聖書が言う本当の自由、第一コリント6:12、10:23を認めようではないか。 そこで肉的性質の存在を知るのであり、人間の間違った自由観を知るのである。 聖霊の助けと働きを認めるところにこそ、キリストの臨在と導き、御霊の満たしがある。
聖霊の満たしは賛美する歌によるのではない。 人の感情が高ぶるところに聖霊が満ちてくれるのではない。 満たされるから賛美が口から出てくる。 聖霊が導かれるからこそ、賛美の歌が口をついて出てくるのだ。
聖霊は何処に住まわれるのか。 私達の心である。 そこは汚れて薄汚い所、おぞましい場所でもあるだろう。 しかし、その様なところだからこそ、聖霊が住む必要があったのだ。 御子イエスがお生まれになって寝かされたところは、不潔で悪臭漂う飼葉桶だった。 神の御子も、聖霊も同様な場所に住んで下さったとは・・・ 別にそういう場所を好んで住まわれるのではない。 そこに住む必要があったのだ。
ピリピ1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
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