■ 真理は私の内なる方 / 使徒行伝11:17~26 (2014-08-31)
私達はクリスチャンになったとは言え、やはり「この世の道理」が身に染み付いている。 この世の道理、例えば1プラス1は2でしかない。 決して3にも10にもならない。 ある意味、あらゆる状況において、人はこの世の道理と物理の中に生きていると言える。 しかし誠の神を信じるならば、それは根底から揺るがされる。 場合によって1プラス1は100にもなるからだ。
神の世界は「摂理」である。 摂理とは「神の予見と配慮」と言われる。 今起こっていることにだけ意味を見出そうとしないで、将来に起こる出来事に答を求めて待つ、とでも表現しようか。 若しくはあの時起こった出来事の意味は、この事のためだったのか、という答でもある。 昔の出来事の答が今日与えられた、これが摂理だったのか、と考えればよい。 思えば「神は摂理の方だから、神の時を待て」ではないだろうか。 その場で直ぐに答を決めないで、神のみ旨を待とうではないか、である。 ちょっぴりだが、永遠の香りを少しだけ嗅いだ思いもした。
ペテロが夢うつつの中で見た幻は、ユダヤ人、異邦人という二つの括りで考えず、人類すべては伝道の対象であり、救いの対象である、という意味のものだった。 ユダヤ人から見た全ての外国人は、異邦人(Gentile)であって、外国人ではなかった。 つまり蔑むべき割礼なき者だった。 選民意識は偏見と排他主義を先行しただけで、神の民として聖書の中に生きるべき道は二の次だった。
シリヤのアンテオケで何が起こったか? 唯一生きておられる神が遂に民族の壁を打ち砕き、福音が世界に放流されたことだ。 異邦人は神の恵みの外という枠でしか考えられなかったユダヤ人達がアンテオケでジェンタイル(異邦人)の救いを目の当たりにした。 それまでユダヤ人にしか語らなかったキリストを、幾人かの異邦人が聞いて悔い改めに至ったのである。 ペテロが見た幻の意味は、そのことの予見であった。 バルナバとパウロは丸一年の間、異邦人に対し聖書からキリストを教え伝えたので、アンテオケで爆発的に人々が変えられた。 考えるところ、生きる姿勢が変えられたのである。 彼らを眺めていた現地の人々は言った。「見ろ、あいつらはキリストの輩(やから)だ。」 つまりキリストの者たち(クリスチャン)という、ある意味蔑称だった。
異邦人が救われた段階で喜び終わったのであるなら、ようやく芽が出た程度のものであろう。 リバイバルはそこで達成したのではない。 花が咲き、実がなるに至って初めてリバイバルの達成である。 バルナバたちは神の約束と成就を聖書から説き教えた。 そのためにパウロという律法のスペシャリストが必要だった。 キリストが律法を成就されたからである。 それを知らずして救いの成長は無い。
詩篇119:130 「みことば打ち開くれば光を放ちて愚かなる者を悟からしむ。」 私達の毎日は神の言葉の光りによって整えられ、聖霊の力で悟ることが許されている。 ここに愚かなる我が身にさえ、神慈しみ給うという摂理が滴の様に落ちてくるのだ。
世の道理ではない、摂理の神を見上げて生きよう。