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■ さあ、向こう岸へ渡ろう! / マルコ4:35~41 (2014-03-16)

私が「家で犬を飼う」ことに反対してきた理由について、さして深く考えたことは無かった。 単に「猫党」ぐらいにしか、思っていなかったからだ。 しかし、この年になって気がついた。 小学校の頃、兄がどこかから犬を貰ってきた。 外の小屋の軒先につながれていた。 小型でムクムクした慣れれば可愛い犬だった。 餌をあげるのは、いつの間にか私の日課となった。 名前はチビな犬だから「チータン」であった。

学校から帰っては遊んであげていた。 ある午後、帰ってみたら、鎖はほうってあったけどチータンがいない。 母に聞いたところ、答が返ってきた。 「汚いから、犬殺しが持って行った。」 ・ ・・・ 声を押し殺しても、涙はポロポロ流れた。 そのとき、母は私の心を知ったのであるが、他に言葉はなかった。 子供心に深い悲しみの傷がついた。 でも、母を恨んだことなど全くなかった。 しかし、思えばあのとき以来、犬を飼う事は絶対に嫌になっていた。 60年経った今、初めて点と点が結びついた。 あの時の傷はずっと癒されずに残っていた。

クリスチャンになって、そういうことを思い出す恵みをいただいた。 創造主の温かい不思議な温もりを想う。 私達はそうやって古い傷の痕を思い出し、世の不条理の一つ一つを主により癒されてゆく。

ある日の夕方、イエスは弟子達に言われた。 「さあ、向こう岸に渡ろう!」 岸を離れ、ガリラヤ湖の真中に来た頃であった。 彼らの小舟をガリラヤ湖の突風は、気まま勝手に弄んだ。 小舟にしがみつきながら、弟子達は死を予感した。 ふと見ると、イエスは艫のほうで眠っておられる。 「先生!俺たちが死んでも構わんのですかっ?」 怒鳴りつけた、という印象が強い叫びであった。

むっくり起き上がったイエスは、前方を睨みつけ叫ばれた。 「風よ、波よ、静まれっ!」 途端に風も波も静まった。 イエスが弟子達に言われた。 「どうしたことか、信仰がないのは。。。」 弟子達は改めて思った。「この方は一体、どういうお方だろう。波も風も従わせるとは。」

この場面、イエスの言葉にどんな意味があったのだろう。 単に「神を信じる信仰の無さを非難された」のでは無いと思う。 弟子達は既にイエスの不思議なみわざを幾度も目の当たりにして来た。 それでも、目の前の環境がガラリ変わると、まったくイエスを見る目も変わってしまう。 主はその部分を指して言われたのだと思う。

朝と昼のデボーションで恵まれ、日曜のメッセージをいただいて過ごす。 素晴らしい主の臨在の中で・・・ しかし、目の前が変わると途端に暗雲が霊性を包んでしまう。 先ほどまでの満たされた心は既に嵐の湖である。

現実に弱いなぁとつくづく思う。 人間とはこれだけのものでしかないのだろうか。 突き抜けられない内側のせいか、果たして抜けきらない世のしがらみせいか。

昔、ジェームス・バッカムという人が言われた。 『ああ神よ、悲惨の道は、私があなたに至るの道なりき。』

主なる神が私の周囲、心に、天の御座に、そして王の右に座し給うのに、目の前が変わると波風に揉まれる小舟の如く、更には主が完璧に見えなくなってしまう。 眠っておられるイエスの偉大さよりも、眠っておられる御子に腹が立っている私。 現実に対して弱い、のではない。 元々が弱いのである。 仮に主が眠っておられても起きておられても、イエスはイエスである。 そして人間とは、それだけのものだと認めよう。 こんな者さえ、イエスは選んでくださった。 こんな者のためにイエスは血を流し、苦しみ、死んでよみがえられた。

「さあ、向こう岸に渡ろう!」 イエスが目指されたのは、イエスと一緒の旅、イエスが先導される人生でなくてなんだろう。

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