■ 先入観その2 / マルコ9:16~29 (2014-03-09)
既に絶版であり、ネット販売店の在庫も無い、しかし私の好きな本が手元に有る。 それは「宮島信也牧師」が書かれた「田舎牧師の日記」である。 ユーモアがあり、そして非常にリベラルでもあり、人情味豊かで人間性に富み、しかしチクッと刺されるものも潜んでいる。 「誠、唯一の神さま」はとてつもなく大きくて、しかも霊なる存在であるから、人間の浅はかな頭や心では、まず捉え切れない。 きっと堅物クリスチャンなら眉を顰めて相手にされない日記かもしれない。 でも何か共有出来るというか、同感してしまう部分が少なくない。
先生が学生(神学生だったか)の頃、同室となった男は大酒のみであり酒癖も悪かった。 毎晩酔って帰り寮に来ては、ひと回り各部屋の学生たちに絡んだり、怒鳴ったりしてからでないと寝付けない男だった。 ある晩、自室に帰った男は、宮島君に向かってこう言った。 「おい!宮島!テメエ、バッド・シックスティ・ナインって酒、飲んだことあるか!知らねえだろ、バカヤロウめが!」 本当に嫌な奴だったと宮島君は思った。 だが夜中、男は突然窓を開けるとゲーゲーやりだした。 宮島君は布団を頭までかぶり、眠りに入ろうとしていたとき、布団の中で男がぶつぶ言うのをふと耳にした。 「カミヨ、カミヨ・・・」誰かを呼んでいるようでもあった。 そして数十秒、宮島君はふと思った。 もしかして「神よ」ではなかったか? 頭はすっかり覚めたが、その声は二度となかった。 翌朝、宮島君はその男を好きになった・・・とか。 (うん、その心境わかるなぁ)
イエスの前に一人の少年と父親がいた。 少年は幼い頃から、わけの分からぬ精神的病に冒されていた。 父親は弟子達に背を押されるようにして、イエスに言った。 「先生、お弟子達には出来ませんでしたが、もし、なにか、あなたにしていただけるなら、どうかこの子を助けやってください。」 イエスは即座に答えられた。 「もし、と言うのか。信じる者にはどんなことでも出来るのです。」
ここに私達が陥っている信仰の不徹底があるのではないだろうか? 毎週、几帳面に礼拝に通い、食前に祈り、とりなしの課題を祈っている。 だが、主の前において「もし、なにか、お出来になるのでしたら・・と言った、退いた様な言葉と思いは、謙遜という着物を被った者の姿なのでは? それは、あなたは主に期待していない、と言われても仕方ないのではないか。 「肝心要のとどめの切っ先」を突きつけていないのだ。 聖書は、私達に対して、その意味を語っている。 この場面、「出来ますならば」の言葉は切なる祈りに不要である。 全知全能の主にいう言葉ではない。 それは謙遜ではなくて、不信仰である。 「主よ、あなたしか頼るところはありません。あなたならお出来になるのです。お願いします、主よ。」ではないだろうか。
父親と同じように、私達の頭は「この世の常識と道理によって蓄積した先入観」という壁が、すべてを阻んでいる。 それを乗り越えなければイエスの前にはいつも悲観的、自己卑下、弱きの虫、否定的、消極性が立ちはだかる。 イエスの御名にはそれらを超えさせる力と、大胆性がある。 だとしても、この世からの先入観がすべてを押し留めしまっている。
そして父親は言った。 「信じます、不信仰な私をお赦しください。」 「信じる私」と「不信仰な私が」並列した。 これで良いのだろうか? そう、それで良いし、それこそが私だと思う。 それしか人には出来ないし、それが出来るのだと思う。