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■ 不条理か、主のみ旨か / 申命記34:1~12 (2014-01-05)

モーセは40年間、イスラエルの民を率いて荒野をさ迷った。 旅というよりさ迷った。 70万を超えようかという民はモーセに逆らい、不満たらたら、自分勝手な言動に走り、 主を忘れることしきりであった。 なんという不信仰のイスラエルと、昔は私も思ったものだったが、1988年にイスラエル・ツアーに参加し、実際の荒野を目にした時、つくづく悟った。 「いやぁ、日本人には3日ももたないまぁ・・・」と。 石ころだらけの荒野に生えている僅かな草、水場など殆ど無い。 見渡す山々には木さえも、ろくすっぽ存在しない。 主が下さる様々な奇跡を目にしたとしても、愚痴や不平を並べる民の気持ちがよく分かった。

40年が満ちる頃、いよいよ約束の地、カナン間近に迫った。 神の時が来たのである。 40年の間にイスラエルの一世代が完全に入れ替わった。 それは彼らの不信仰に対する神罰であった。

その様な苦難の40年にあって、ようやく希望の光りは心に満ちたことだろう。 だがその日、主はモーセをネボ山ピスガの頂に導き、はるかに横たわる約束の山河と平野を見させられた。 申命記34:4~5 そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。 死、それはモーセが民の前で、感情を爆発させ、神に栄光を帰さなかったかである、と聖書は言う。

私は長い間、モーセの思いを想像し胸が詰った。 もし、そこで死ぬとしたら、彼の40年間の苦労は何だったのか? もし、そうであるなら神に仕えるとは、時としてそういうことも有るということか。。。

今年、その箇所から別な見方を得た。 そうだ、モーセは神からの罰によって、かの地に入れなかったのではない。 神はモーセを誰よりも愛しておられた。 モーセだけが主に向かって、「顔と顔」を合わせて話が出来たではないか。 モーセだけが神から信頼され、神は御心を示された。 神は「モーセよ、ご苦労だった。あなただけがわたしに聴き従い、わたしに仕えてくれた。 もうよい、休みなさい。充分だよ。後はヨシュアがいるではないか。だからお休み、わたしのしもべよ」との方が、新約に通じる愛の神であろう。 若しくは人の死とは「必ずしみ罰ではなく」時として「神の愛」と捉えるべきものかも知れない。 主は必ずしも「因果応報」に順ずる方ではない。 イエスは生まれつきの盲人に関して、「神の栄光が現れるためである。」と仰った。 決して彼の罪ではなく、先祖の罪でもない、と。

一年の一番初めにいつも思うこと。 それは私達の365日、この一年起こるであろうこと様々な出来事は、主だけが知っておられる。 主はそれらを私達に見せたいと思われても、時間の中でしか生きられない私達人間には到底理解できない。 私達には、今と過去しか見えていないのだから。 しかし、である。 「わたしを信じて生きなさい。どんなことが起ころうと、わたしはあなたと共にいる。わたしは決してあなたを見放さず、あなたを捨てない。」

人生とは、やはり素晴らしい。 それはまことの神、主に出会えたからこそ、のものである。 モーセが見た景色は見えずとも、主が伴っておられる私達の人生の、見えない景色はなんと素晴らしいことだろう。

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