■ 何のために / マタイ26:1~17 (2013-03-17)
ベタニヤ村に三人の兄弟姉妹が暮らしていた。 イエスは、その家族を訪問することを、いつも楽しみにしておられた。 ラザロ、マルタ、マリヤに対し、イエスは特に親近感を覚え、平安な滞在の時間を過ごされた。
特にマリヤはイエスに対し、食事などの接待に気をもむことより、イエスが語られることば一つ一つを、一つとて聞き逃すまいという姿勢であった。 私は思う。 マリヤの姿勢こそ、私達クリスチャンの礼拝に求められる姿勢であると。
そしてマタイの福音書26章にマリヤが登場する。 只し、そこにマリヤという名は語られない。 「1人の女」と表現されているだけだ。 そこで語られる女性の態度と行動から、彼女こそマリヤであると確信する。 ベタニヤ村にあるシモンという人の家での出来事。 女は非常に高価な香油をイエスの頭に塗った。 それも惜しげもなく・・・である。 別の聖書では女はその壷を割って、とある。 そこにも彼女のイエスに対する熱い思いが表現されている。 だが、その日はイエスであるから高価な香油を塗ったというより、間もなくイエスに訪れるであろう死を確信してのものだった。 つまり、彼女は死者を葬るための備えをしたのである。
その様子を見ていた弟子の幾人かが彼女に詰め寄って、その行動を強く非難した。 「何という無駄なことをするのか!この香油を売れば貧しい人たちに施しが出来たものを。 一体、何のために!」
そう、「何のために」である。 何のためにを「知っていた」からこそ、彼女は「それをした」のである。 弟子達は「何のために」を知らなかったからこそ、彼女に迫ったのである。 ここが全てであった。
仮に私達があと一歩も二歩もマリヤに追いつかない理由がここにある。 つまり「何のため」を悟れないからだ。 若しくは、悟ろうとしないからか。 「何のため」が分かっていれば、多少は高いハードルであっても越えていたであろう。 しかし、知ろうとしないから、分からないから、ハードルの手前いつだって踏みとどまってしまうのだと思う。
何のために、礼拝に行かなかったのか? 何のために祈れなかったのか? 何のために伝えるべき言葉を言えなかったのか? 何のために大胆になれなかったのか? 何のために恐れたのか?
それはイエスのことよりも、主のご意思よりも、自分を優先したからであろうか。 結局、「何のために」の価値と意味を知らないからなのか。 そう、弟子達と同様に「300デナリの香油が勿体無い」と判断したのであろうか。 300デナリと言えば、当時において約1年分の収入に匹敵する金額だったから。
思えば、何年クリスチャンをしていても、あの「高価な香油」に目移りしてしまう。 ここに、この世の価値観をひっくり返すほどの、イエスに対する価値観を持たない己が身の情けなさと足りなさが浮き上がって来る。 あの弟子達と何ら変わらない自分である。 否、弟子達はあの時点では、イエスの死が彼らの罪を贖うためのものだとは知っていない。 だが、私は既にそれを知っている。 ならば、我が身を彼らに置き換えることは、彼らに対して実に失礼なことではないか。
マタイ26章11~13節 イエスは言われた。 『貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。』