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■ このエデンにも終わりが来る / ルカ21:5~36 (2013-03-10)

妙に教えられる話しがあった。 明治の俳人、荻原井泉水さんが残された言葉。 「豆腐は四角四面の仏頂面だが、軟らかさ申し分ない。身を崩さぬだけの締りもある。 煮ても焼いてもよし、沸きたぎる油で揚げても、寒天の空に凍らしてもよい。 相手を選ばぬ。ちり鍋、すき焼き、おでん、正月の重箱でも仏事のお皿にも一役買う。 実に融通が利き、文字通り無我の境地に至っている。 それは重い石臼の下をかいくぐり、細かい袋の目を漉して、散々苦労をしたからである。」 もう一言足すと、立派な豆腐になれず、捨てられた輩共でも「オカラ」などと呼ばれた世呼び名と見かけに至ったにせよ、人間の為に栄養分をしっかり保った姿は天晴れなまでの見事で豆豆しい一生である。 無理かも知れないが、豆腐に負けない様な柔軟性と信念、確たる一筋の生き様を持って主イエスに仕えたいと思う。 最後の最後まで「ひと味もふた味もある」キリスト者でいたい・・・と。

私達は創造主に出会い、信じた。 このお方は唯一、誠の神であって、他に神はいない。 つまり我らキリスト者は、昔懐かしい金太郎飴ではないが、人生のどこを切られても、この身のどこを割られたとしても、金太郎が顔を覗かせる如く、十字架の痕が見られる様な信仰者になりたい。 成るというより、ならせていただきたい。

受難週の火曜日、イエスはこの世の終わりについて預言された。 それを聞いた弟子達は、「世の終わりはいつ、どのようにして?」「その訪れの前兆は?」と聞いた。 様々な前兆が来るが誰もその日は分からないと主は言われた。 分かっておられるのは、父なる神だけだと・・・

この世は人間が造った。 天と地を造られた神の被造物世界を人間は造り変えてしまったのである。 この世は今や、人にとっては文字通り「エデンの地」である。 食べたい物を食べ、呑みたいものを呑み、したいことをする。 これぞ人間が求めたエデンである。 ここに神の規律は無い。 あるとすれば聖書と教会がある場所か。 この地上に終わりは必ず来る、とイエスは仰る意味が分かる。

創世記が語るエデンの園は神が置かれた。 そこは神の規範が一つだけあった。 つまり、園の中央の木の実だけは決して食べてはいけい、というものだった。 神はそれを食べると必ず死ぬ、と言われた。

私はふと考えたものである。 「もし食べて危険な木の実だったら、どうして人の目につかない場所に置いてくださらなかったのか・・・おまけに人目につき易い真ん中にに置いたんですか」と。 だが直ぐに「それは神さまの規律を中心にして生きなさい。」ということだと悟った。 主を中心にして生きれば、人生決して大きく間違うことはないよ、という意味だったと思う。 だが、人はいとも簡単に主の規律を破ってしまった。 そしてエデンの園は人間を締め出した。

思うに、人は神さまが下さったエデンから追い出され、自分たちの理想のエデンを開拓した積りだったが、それはやがて全人類に滅びをもたらすところとなった。 つまり、その地そのものに要因があった。 それは神を締め出した地であり、神に変わる新しい支配者を置いたからだ。

この地、この世を支配しているのは決して人間ではない。 サタンである。 だが人間はそれを悟らないし認めない。 ここに悪魔の言葉がある。  ルカ4:5~6 悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、 こう言った。 「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」 (ルカ4:5~6)

実に恐ろしい言葉である。 今も尚、人間はこの世の真の支配者を知らない。 だから自分たちこそ、この世の支配者と思っている。 ここに悪魔の知恵がある。 「悪魔などいない」という意識を人間に植え付ければ、人類は放っておいても「神など要らない」と思い込む。

世の終わりのとき、主イエスは再び来られる。 只し、今度は救い主としてではなく、裁き主としてであることを人類は既に2千年間に渡って聞かされて来た。

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