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■ この神と預言者の言葉に、あなたは何と応答しますか? / イザヤ書55:6~11 (2013-01-13)

イザヤ書、私のお気に入りは特に第二イザヤと呼ばれる40章から55章の部分である。 翻訳されたものであっても、その前後の章と比較すると文体の流れも主張も異なるのがよく分かる。 比較せずとも、あきらかで急な変化は単に本人の気持ちの変化だけではない、なにかを汲み取れる。 書く人が違えば、神さまへのラブレターも嘆願も叫びも異なるのは、当然のことなのであろう。

55章6節、預言者イザヤの切実な訴えが聞こえてくる箇所である。 『主を求めよ。お会いできる間に。 近くにおられるうちに、呼び求めよ。』

これは神の選ばれた民、ユダヤ人に向けて語られたものである。 すると、現代の私達キリスト者には無関係なのか? とんでもない。 これこそ私達へ勧めであると思う。 神を知らない人に「主を求めよ」と叫んでも求め方さえ分からない。 主とはだれ?と言われるのがおちだ。 「会える?近くにいる?」トンチンカンな質問が帰ってくるだけだろう。 ユダヤ人たちは帰るべき神さまを知っていた。 その方から離れた自分を知っていた。 それは同時に私達にも当てはまる。 否、私達こそその声を聞くべきであると思う。

私達は自分の位置、つまり神と自分との距離感を認識出来る。 今、離れてしまった自分がいる。 今、私は本当に主のみ傍にいる。 自覚できる魂は幸せと思う。 多くの人はそれを知らないからだ。 近くにあると思っていても、それが単に過信であると誰も気づかないのが現状だ。

神から遠ざかったイスラエルびと。 神から遠ざかったキリスト者。 しかし、そこに共通性は無い。 私達の方がはるかに恵まれているからだ。 神は人となって、この地上に降りて下さった。 その方、イエスは私達のために死んでくださった。 私達はイエスを信じ受け入れただけで救われた。 イスラエルびとが聞いたら何と思うだろう。 ロマ書が言うとおり、おそらくやきもちと妬みを受けるであろう。 但し共通性が一つだけあった。 それは信じる対象が同じ神、ヤハウェであるということだ。

その方、ヤハウェがいわれた。 55章 8節と9節 『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。』 主が直々に我々人間に訴えておられる。 私達の目が上なる方に向けられ、心が素直になるようにと。 水平方向だけで生きるのでなく、いつも開いている真上の天にこそ、はるかに気高い至幸の道があるということを。

そこで問われていることは、「その方に何をどう応答するか」だけだ。 主はいわれる。 イザヤ書55:10~11節 『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』

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