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■ 33年目の結実 / 使徒の働き3:1~19 (2012-12-16)

  • 使徒の働き3:1~19
  • 2012年12月16日
  • 読了時間: 4分

「神のことば」が人となったのがクリスマスという原点である。 その時から人類社会に深く長く、広がった分野の裾は実に測り知れず、である。 音楽、絵画、彫刻、文学、思想、歴史、そして人々の人生に・・・・

二千年前、この世に一つの実が落ちた。 実は貧しくも清い家庭によって守られ、ナザレという小さな村で育まれた。 神の言葉は人の形と神性を持っておられた。

イエスが公けに登場され行動を起こされたのは僅に三年である。 人類の膨大な世紀に比べるなら僅かな点にも満たない。 しかし、それは単なる点ではなかった。

イエスという神の言葉は無惨にも踏みにじられ抹殺されたかに見えたが、よみがえり給うたイエスへの信頼する力は何万倍にもなって成長し、神が意図された現実となった。 それが「キリストを信じる者」の行動力とその結実となったのである。

生まれつき足の萎えた男が、エルサレム神殿にある「美しの門」の前に座り、今日も朝から参拝者による憐れみの銭をもらうために、行き交う人々の目を捉えようと伺っていた。 そこへ、ペテロとヨハネが通り掛かった。 ペテロが男に向かって言った。 「私達を見なさい!」 男はペテロを凝視した。 ペテロが叫ぶ。 「金銀は私には無い!私に有るものを上げよう!ナザレのイエス・キリストの名によって歩け!」 と、手を差し伸べて男の手を握った。 聖書には確かに文字の終わりに「!」の印しは無い。 無いけれども、きっとペテロの言葉は叫びに近かったと思う。 だが平坦な抑揚の無い言葉では無かった。 ナザレのイエス・キリストという名への信頼に満ちた、激しく熱い力強い言葉であった。 すると、男は立ち上がった。 立ち上がれた!その驚きと喜びに男は踊り跳ねた。

ここに33年前にイエスが赤子としてお生まれになってから初めて、イエスの弟子による大きな力強いわざがなされたのである。

そのときペテロは、男に対する命令の結果「仮に失敗したらどうしよう?」といった考えが心をよぎっただろうか? 「気持ちでは何とかしてあげたいが・・・実際は?」と迷っただろうか? 残念ながら、私だったら出来なかっただろう。 だろう、ではなく、しなかった、が正確である。 何故か? それは仮に瞬間的にせよ、自分の中のイエスに対する信頼度が100%に達していないことを自覚しているからだ。 だがペテロはナザレのイエス・キリストへの信頼度が2000%だった。

確かに情けない話である。 信仰よりも経験が働いてしまう。 信仰よりも世の道理が働いてしまう。 イエスへの信頼よりも、己の弱さが見えてしまう。 イエスの御名に対する信頼よりも、自分の名前に心理がついつい傾いてしまう。

P・T・フォーサイスという先生が「キリストへの信仰、信頼」について言葉を遺されているが、その中で「服従」について言及されている。 先生は、「キリストに対する信頼、信仰があるならば、既に服従がそこに備わっているのだ。」と言われた。 「キリストに対する服従は、信仰から成長して萌芽して来るのではなく、既に当初いただいた時点で、その信仰に包含されているのである」と。

私にしてもキリストへの服従心が実に貧しい。 そして服従という言葉に対し、非常に馴染み難い生理が働く。 出来れば避けて通りたい程だ。 するとキリストに対する信頼度など、殆ど無きに等しいと認める以外に無い。

確かに迸り出る信仰とは連続した時間の中で問われるのではなく、瞬間という秒数の世界で、あたかも自然に発揮されるのかも知れない。 しかし瞬間に行動できる信仰とは、普段からキリストに信頼している土壌があればこその発芽だと思う。 根があればこそ、発芽がある。 「ナザレのイエスの名によって、我が身よ、我が魂よ、立ちて歩け!」が、自分の土壌になければ、どうして瞬時に他の人に向かって叫ぶことが出来ようか。 やっぱり無いものはあげられないのだ。

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