■ 蒔いた種は必ずいつか芽を出す / 創世記31:1~29 (2012-11-25)
- 創世記31:1~29
- 2012年11月25日
- 読了時間: 3分
種は種でも神さまが蒔く種と、人間が蒔く種はこうも違うのか、と考えた。 キリストが蒔かれる種は、やがて人に救いをもたらす。 人の心の中に蒔かれて育ち、やがて芽を出し花を咲かせ、実をならす。 一人の救いは家族の救いへと広がる。
人間が蒔く種に良いものはない。 先ず悪い根を張り、やがて芽を出し、実のならない葉ばかりの大きな茎となる。 そして、その人は自分で蒔いた種は、いつか必ず刈り取ることとなる。 それだけではない。その人の人生と魂さえも土壌から腐らせる。 そうなることを知っていたなら、誰だってそんな種を蒔かないであろうに。 しかし、人の心は神のみぞ知る世界であるから、当然ながら当人自身知る由もない。
ヤコブが蒔いた種は結局、彼がすべて刈り取る破目になった。 兄と父を騙した種は、叔父であるラバンの家における相克の結果、20年という月日を刈り取りに要した。 それでも・・恵みの主はヤコブを守り祝福し、11人の子供と増え広がる家畜の群を与えられた。 そして遂にヤコブは故郷へ向かって旅立つ日がやって来た。 ヤコブと二人の妻、そしてしもべ達はラバンの目を盗んで集団脱走を計ったのであった。 本来なら「故郷に錦を飾る」かの様な多人数の一行であったが、実体はその逆だった。
クリスチャンの「信仰は実に神の息」である。 創世記で「神は地の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。そして人は生きたものとなった」とある。 私達の中にあるものは、神の息である。 息であるから、それは絶えず動き躍動する。 そういうものを内側に頂いた私達が、ただひたすら、じっと静かにしていることなど出来ようがない。 自分をひたすら押さえこみ、見ても知ってもだんまり素振り、まるで世捨て人のように納まっていては、「神の息」がどうにかなってしまう・・・・のである。
この世でクリスチャンこそが「生きた者」とならずに、他の誰もなれる筈もない。 ヤコブのパダンアラにおける20年、それはまるでこの世の強欲と妬み、裏切りが絶え間なく蠢く年月だった。 それでも主は彼を祝し見守られたのである。 そして遂にそこから脱出の時が来た。 ベテルの神は決して彼を見放さず、見捨てなかった。
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