■ 私は主に仕えます / ローマ人への手紙15:13~17 (2012-01-29)
パウロが書いた手紙の中で、テサロニケびとへの手紙を除いたすべての手紙の冒頭は一致している。 「私はキリストによって呼ばれ、私はキリストに仕えるしもべである」と書いてある。 明確に見て取れるのは、パウロが誰に呼ばれ、誰によって今があり、誰が彼を動かし、誰に仕え、誰に向かって生きているかである。 それは真っ直ぐに真一文字にキリスト・イエスに向かっている。 私達クリスチャンも同様である、と自覚しているが、果たしてそうであろうか? もう一度、自分の足跡を振り返る必要があるのではないだろうか。
毎日の生活、毎月の主日、果たして一心に主に向かって生きているだろうか? キリストに対し熱い期待を持っているだろうか。 いつも様々なチャレンジを抱き、めげても立ち上がる神への思いを積み重ねているだろうか? 理想を現実へ取り込む大胆さと使徒が抱き続けた飽くなき夢と幻を見続けているだろうか? 眠れぬ夜には神の不思議に思いを馳せ、暗闇で静かにしかし熱く語って下さる御霊の囁きに耳を潜めているだろうか?
パスカルの有名な言葉がある。「人は考える葦である。」 そう、神を考えよう。聖書があなたに伝えることを考えよう。 39歳で没した青年パスカルの残した言葉は、永遠の神が、この様なチッポケで無力な私達に向けられた創造主の深い愛を考えよ、ではなかったかと思う。
パウロの信じた神は「望みの神」であった。 彼が如何なる環境におかれても立ち上がることが出来たのは、「望みの神であり続ける主」から目を離さなかったからである。 人の心は決していつも一枚岩ではない。それはやがて少しずつ形を変える。 細胞の集まりのようにうごめき変化し、膨張したり、伸縮したりする。 変らない部分はまさに古い自分、生まれ持った性質の塊だけかも知れない。 その塊との戦いに挑むのは、キリストによって新しく生きようとする人間性である。 パウロでさえ、そのことを認めている。 そして彼は勝利の道を知っていた。 唯一、キリストだけが望みであることに関して彼がぶれたことはなかったからだ。
年の初めにあって思うこと。 あなたはあなたの教会に何をして欲しいか、自覚しているだろうか。 こうなって欲しい、こうして欲しい、と思うだけでなく、あなたがそのために何が出来るかを考えたであろうか。 その時に自分という器の度量など考える必要はない。 自分のキャリアも可能性も先ずは横に置こう。 そして考えるべきは「あなたという土の器に入って下さった全能なる神」のことである。 問題はその宝である(第二コリント4:6~7)。 あなたが、ことを為すのではない、 主が、ことを為されるのだ。 あなたはひたすらビジョンをかかげ、幻が現実になることのために神を信じて祈ること、あくまで諦めないで祈ることである。 やがて時至れば、主がことを始め、あなたを動かし始める。 必ずそれは来る。 キリスト信仰は眠ってはいけない。 御霊も絶えず躍動し、呼吸をしている。 御霊はいつもあなたの心を見ておられる。 だから、眠った信仰ではいけない。 神はいつも起きておられる。