■ クリスマス・神の必然 / ルカ2:11~20 (2011-12-25)
「必然」という言葉は、必ずそうなる、という意味であり、対するは「偶然」である。 偶然とは、何の因果関係もなく、予期しない出来事が起こるさまを言う。
さて、あなたがこの世に生まれたて来たことは必然か、偶然か・・・・ もし創造主を知らない人は大概の場合、「偶然である」と言うだろう。 何故なら、人は創造である神さまを知らなければ、認めなければ、自分の命の存在意義も この命の発生の意味さえも知ることは出来なからだ。 だが、天の父なる神を認めると、キリスト者の人生から「たくさんの偶然」が消えて行くのが不思議だ。 必然なる創造主がおられるから世の様々な事象は偶然ではないのだ。
私も家内も25歳の結婚当時、全くの教会嫌いであり、クリスチャン嫌いの者であった。 凡そ、そういった世界とは、まったく正反対の次元に生きていたのだ。 それから24年後、私は牧師となっていた。 その間に、どのような力が継続的に働いていたかを求めなければ、今の私の事業は実に虚しいし、意味がない。 確かにそれは偶然ではない。 必然的なプロセスだった。
思えばアンチ・キリストの家内がクリスチャンになったのも、必然だった。 家内を迫害していた私がやがて信仰に至ったのも必然だった。 だから、私はなるべくして、必然的に牧師にならされたと言える。 必然なる方、神の語り掛けとチャレンジは止むことなく、一つの因果系列として、私の生きる道に関わって交差して来た。 そして私は神と自分の人生に因果関係を認め、神の介入と導きを選んだ。 これは哲学的解釈かも知れないが、私としては実に納得できるものだった。
イエスの御降誕は神の必然だった。 イエスが処女である若い少女の胎に命として宿り、限りなく危険な環境に生またが守られ、そして貧しい船大工の長男として成長し、30歳から公生涯に入られ、三年の後、群集の目前で十字架において無惨に殺されたのも、神の必然であった。 それ故に世界の人間に救いの道がもたらされたのである。 これら気の遠くなるような大昔から預言者によって啓示された神のご意思と計画だった。
しかし、どちらを選ぶかはいつも、あなたの選択である。 キリスト信じるか、信じないか。あなたの自由である。 天の父を信じるか、信じないか。あなたに任されている。 人間はいつも自由に選択できる。
だが、一つだけ考えて欲しいことがある。 何故、最初のクリスマスがあったのか・・・・・・を。