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■ I trust only GOD / イザヤ書8:11~22 (2011-12-04)

1947年、死海北西の要塞都市、クムランの洞穴で少年が暗闇の奥に向かって投げた石が不自然な音を響かせた。 コーンという音に少年は続けて石を投げたが、やはり反響音を伴っていた。 確かめると大きな蓋のついた壷が幾つもあった。 何かある、と捜索隊が踏み入って判明したことは、何と2000年前に書かれた写本であった。 更に他の洞穴からも壷が発見され、合わせて11箇所から大量の写本、文書類が見つかった。 その代表的なものが死海写本と言われるイザヤ書であった。

日本における1947年は終戦後間もない時代。 この様なニュースがどれ程の反響を呼んだか分からないが、世界のキリスト関係者においては、実にビッグニュースであったと思う。

待降節、つまりアドベントの今、私はイザヤ書に目を留めている。 第一イザヤと言われる記者はその頃20歳位であったろうと言われる。 若くして神に呼ばれた青年イザヤ。 この世に人類ある限り、永遠に光り輝くイザヤ書である。

今から凡そ2747年前、ウジヤ王が死んだ年、イザヤは神殿における礼拝の最中、主を見た。 御使いが立ち、イザヤの目の前でこう叫んだ。 「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。その栄光は全地に満つ。」 その時、宮の敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。 声は言った。 『誰を遣わそう。誰が我々のために行くだろう?』 イザヤは言った。「ここに私がいます。私をお遣わしください。」

そしてイザヤはユダという国に遣わされた。 しかし、彼に託された宣教は、民の心を固くするメッセイジだった。 「聞き続けよ、だが悟るな。見続けよ、だが知るな。その耳を遠くし、その目を閉ざせ。」

今、その宣教を託されたとしたら、どこの誰が、ユダの地に行くだろう。 隣国、遠国、大国の脅威が迫り、いまや風前の灯と神とイザヤの目に映っていた。 故にこそ、神は語られたのか。 「誰がわれわれのために行くだろう?」と。

アハズ王は強力な国との不可侵条約を結ぼうとしていたが、神のご意思は違った。 イザヤは神のみ旨をアハズ王に伝えた。 「王よ、決してエジプトにも北の大国アッシリヤとも同盟を結んではなりませぬ。 この国は絶対中立国として、神だけを信頼するのです。それが我らの主、ヤハウェの御意思ですから。」 だが、王の心は既に北の帝国に傾いていた。

そしてイザヤは独り神の前で立つ。 「私は主を待つ。私はこの方にのみ望みをかける。」(イザヤ書8:17節) この信仰はどこから来るのだろう。 天と地を造られた神以外から来よう筈がない。 そして現代のクリスチャンはどこに立とうとしているのか? イエスを、この世に捧げた神以外のどこに立つ場所があるというのだろうか。 他にはない。 イザヤを捕らえた主は、我らの主である。 イザヤを遣わした主は、我らを遣わす主である。

「私は神だけを信じる。」それがイザヤであった。 果たしてあなたは言うだろうか?『I trust only GOD!』

問題はあなたの価値観である。 そしてpriority(プライオリティ)優先順位である。 救い主に対する価値観はどれ程のものだろう。 十字架の主はあなたとあなたの人生で価値として他の何ものにも譲れない1番であろうか? アドベントの週の中で、何を待つべくして待っているのか、もう一度再考すべきときではないだろうか。

イザヤ神の声を聞き、その使命を背負ってから150年、ユダの国は流浪の旅となった。 「いつまでですか?」と主に問うたイザヤの脳裏には数十年というものだけだった。 だが、間もなくそのイザヤを通して語られる9章からの預言は永遠に人類への希望のことばとなった。

『しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』

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