■ あなたなら直ぐにヨルダンに身を浸せますか? / 第二列王記5:1~14 (2011-09-04)
旧約聖書に「ナアマン」という将軍が登場する。 華々しい戦績を残し、誰もが一目を置いた人だった。 しかし、気の毒に非常に思い皮膚病を患った。 「私の国におられる預言者のところに行くなら、ご主人様はきっと癒されるでしょう。」 そう言った少女は、捕虜として連れて来られナアマンの妻に仕える奴隷だった。 伝え聞いたナアマンは藁にもすがる思いでイスラエルを訪れた。
預言者は彼に言った。 「ヨルダン川へ行き、7度その水に体を浸しなさい。そうすれば、あなたの体は元どうりになる。」 だが、それを聞いてナアマンは怒りに怒った。 「たわけたことを抜かしおって!ヨルダンの小汚い川よりも、わしの国の川の方がはるかに清い。7度だと!何を根拠に言うのじゃ!わしは彼が、この患部に手を置いて祈るとかすると思うたに!」 怒って身支度を整え国へ帰ろうと立ち上がったナアマンに家来が言った。 「将軍、どうしてお怒りですか。預言者は決して難しいことを言ったのではありません。 それともあなたは、預言者が難しいことを言ったなら、それに従ったのですか?」
ナアマンは思い直し、ヨルダン川の岸辺に立った。 おそらく、これで治らなければ、預言者の首をはねる積りであったろう。 彼は水の深みに進み入ると、言われたとおり7度、水に身を浸した。 すると、彼の体は赤子の様なきれいな肌になった。
キリスト教、そして福音とは、実に単純なものなのだと思う。 それが、なぜ難しくなったのかというと、人間が難しくしたのである。 歴史の過程で信者たちが、教会が、そして世の人々が難しくしたのだと思う。 「神を信じなさい。そうすれば、あなたは救われる。」 修行ではない、勉学だけではない、鍛錬ではない、資格ではない。 キリストを信じて心に迎えなさい、である。そうすればあなたの魂は救われるのだ。 その「救い」という本質と原点をクリスチャン達は忘れていませんか、そう思う。
そして人は考える。文字通り「考える葦」だからだ。 簡単過ぎて、信じられないのであろうか。簡単過ぎて頼れないのであろうか。 自分の努力、自分の献身、自分が汗水垂らして悟りを得たものなら本物?と誰かが言ったか。 それは人間の満足度でしかない。自分が思ったものばかりである。 神が中心でなくて、いつの間にか、いつも自分が中心になってしまう。
第一、 見えない神に向かう姿勢とはどういったものであるべきか? わからない、のである。 目に見える人間に対してさえ、何も出来ないときは多々あるのに。 自分で自分さえを支配出来ないでいるのに。
単純になるとは、赤子の様に神を信じ、信頼することである。 その赤子になれないのは、どうしても己のキャリア、経験、道理、見解、プライド、誇り自尊心、すべてこれらが邪魔するからだ。 赤子は純粋無垢である。第一、無垢になろうとさえもしていない。 相手が全知全能なる神、御霊の神であるなら、人間は自らペシャンコになって、這いつくばって地面に顔を突っ伏すしかない、のである。
私達は、その神を礼拝している。 クリスチャンとは何と恵まれた人々だろう。 努力面からすれば、イスラム教の人々の方が、数段上に思える。 日に数回、地に膝をつきひれ伏して、神を礼拝している。場所がどこであっても、である。 冬の滝に打たれ、修行する僧もいる。火を渡り歩く山伏もいる。
だが、我らの主は裸で十字架に掛けられて叫ばれた。 「父よ、彼らを赦し給え。彼らはそのするところを知らざればなり!」
あなたなら預言者の言葉に従えると思う。 多摩川でもアマゾン川でも揚子江でもない。ヨルダンでなければ。 5度でも10度でもない。あくまで7度である。 ここに語られている真理とは 「神の言葉であるなら、それがどれ程馬鹿馬鹿しく思えても、言われたそのとおりにしなさい。」である。