■ 私の内に潜むカイン / 創世記4章1~16 (2011-08-21)
エデンの園、その園内で何が起こったか? そこは人間の「神を思う霊性の死」がスタートした。 では、エデンの園の外で何が起こったか? そこは「尊属殺人」の場となった。
エデンの内外、神の臨在と支配に近い場所であっても、人の心に神への畏敬の念無くば、どんな惨たらしい事件だって起こり得る。 つくづく現代の人間社会の出来事を思わされる。 悲惨な事件の容疑者、被害者の多くは、大体において普通の人たちである。 殺した人も被害者も、それまでは極普通の人達であったことに、いつも驚きを覚える。 「あんなに優しい人なのに」「あんなに礼儀正しい人なのに」近所の人たちが口を合わせて後述している。
弟のアベルは羊を飼う酪農家だった。兄のカインは畑を耕す農夫だった。 このへんにせよ、全く普通の人々だ。だが、事件が勃発した。 カインが野でアベルを打ち殺した。地はアベルの血を吸い、その哀れを嘆いた。
カインもアベルも収穫時期になれば、神さまの前にそれぞれの収穫から捧げ物を持って来た。 だが神はアベルのささげ物を喜び、カインのささげ物を拒まれた。 その違いは「アベルは最上の子羊を、それも自分で持って来た。」からであった。
ここに礼拝に参加する人たちは心しておかねばならないことがある。 それは「どういう思い」で、「どういう姿勢」で、「どういう心」で神の前に出ているか、であろう。 毎週のことだから、当然の如く、なんていうのはとんでも無いのである。 だが、日曜には必ず教会にいる私達であればこそ、とんでもない態度で礼拝の場所にいるのではないだろうか。
もう一つ、カインの性質の一部を私達が少なからず持っているということである。 殺人者のカインの資質である。 それは、他者に対する積り積もった怒りや妬みが突破口を求め、私達の内に潜んで息づいている、ということである。 積もり積もらせるのは誰あろう。私達である。 ここに人の心の弱さと悲しさがある。 決して表に出そうとしない、出せないからこそ、内側に積もってしまう。 「ああ、主よ。我に大きな罪を犯さずにいられる勇気と、自分を制する力を与えて下さい。」
神はカインに言っておられる。 『あなたの心の戸口で罪が待ち伏せしている。だが、あなたはそれを制することが出来る筈だ。』 しかし、たとえクリスチャンであるとはいえ、人間は自制というものにかけては実に苦手である。 その部分もカインの性質に通じるものがある。
カインは最後まで悔い改めが出来なかった。 彼は自分が犯した咎の重さに音をあげただけであった。 それでも、それでも、神はカインに憐れみをかけられた。 それは私達以上でもなく、以下でも無いかと思う。 神の憐れみなくして、私達はこの世では生きられない。