■ 屑も、虫けらも神の兵士となる。 / ヨハネの福音書6章1~14 (2011-08-14)
仮に、である。 「あなたは目を残したいか?それとも耳か?」と残酷な問い掛けがあったしたら・・・ あなたはどちらを選ぶだろう。と、昔なにかの読み物を読んだ記憶があった。 さあ、目か、耳かと聞かれたら、殆どの人が目を残してと、言うだろう。 実に目は心の窓、と言われる意味が分かるようだ。
目で見たこと、人は確かに記憶に留めやすい。 目撃者の切実な思いが理解できる。だが、聞いたという話の内容は、あまり信用されない。 それでも、目撃者が見ていた様でも後になると案外事実と食い違って来ることだってある。
イエスの不思議な癒し、それを目の当たりにした群衆はイエスの行かれるところ、どこまでもついて来た。その数、男性だけでも5千人と聖書は伝える。 しかし、夕闇迫る時間帯となった時、イエスはふと弟子達を試された。 「この群集の腹をどのようにして満たせるだろう、なあピリポよ・・・。」
「せんせぇ、仮にひと財産有っても、まったく用をたしませんよ。」と、ピリポは即座に答えた。 傍で、このやり取りを聞いていたアンデレが口を挟んだ。 「ここに子供が二匹の魚とパンを五つ持っていますがね、まあ、焼け石に水でしょうなぁ。」 どの弟子もイエスの問い掛けの意味を、あくまで現実的に考えていた。 これまでも限りなく不思議な数々の奇跡を見てきたのだが・・・
イエスは黙って、子供の弁当を受け取った。 そして言われた。「人々を座らせなさい。」 そして群集は座った。 イエスはパンと小魚を手にし、天を見上げて感謝の祈りをされた。 そして、弟子達に向かって群衆に分け与えるように・・しかも欲しいだけ配られた。 この場面、思わず現代のコンピューター・グラフィックにして見たいものだと思った。 あまりに不思議であり、あまりに感動的場面であるが、その中心がイエスであるからこそ、CGで作成した場面でも感動する筈だ。
群集も弟子達も腹を満たした。 だが、イエスは弟子達に言われた。「パンくずを一つ残らず集めなさい。」 何でパン屑を?と誰もが思ったであろう。 そして集めたパンくずは12の篭にいっぱいになった、と聖書は真面目に言っている。 ああ、こんなマジック的で、子供騙しの様な話を本気の本気で信じられるのだから。 そう、クリスチャンは神の恵みをいっぱいに貰っているからである。 仮にそれを疑って何の益があるだろう、と思ってしまうくらいだ。
さて、大切なことは腹を満たしたことより、集めた大量のパンくずであった。 それを見た群集はきっと目を更にした筈だ。 一体このパンくずはどこから来た?
神の栄光はパンくずに現われた。 腹を満たしてもやがて腹は空く。 だが、一度見たパンくずの山は、死ぬまで彼らの目に残った。 実に5千人が同じ景色を目撃したのである。
文字通り、屑が神の栄光を現したのである。 ならば、人間の屑が用いられることだってあるのでは、と私は思った。 何の役にも立たないクズ。 優秀な者、優れた者は皆去って行き、残った者はなんらの価値も値打ちもない者ばかり。 だが!箸にも棒にも引っかからないクズを拾い上げ、聖なる水で洗い、役に立つ者へと変えて下さる方がおられるのだ。 学力も無い。何らのスキルも持たない。知恵も知識もない。無いものを挙げ出したらキリが無い。 だが、もし全能の神の指が少しでも触れるなら、虫けらだろうと、オケラだろうと、キリストの兵士になれるのだ。
イザヤ書41章14節。 『虫けらのヤコブ、イスラエルの人々、わたしがあなたを助ける。』主の御告げ
そう、私は虫けらである、と、神が仰せられた。 素晴らしい!と私は思った。これ以上の愛の表現を、この耳の傍で聞いたことは久しく無かった。 2002年3月15日、私はそこから再び牧師の道を歩き始めた。 何よりも嬉しかった神の「虫けら」宣告によってである。