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■ 私に有るもの / 使徒の働き3:1~19 (2011-06-12)

五旬節、過ぎ越しの祭りから50(ギリシャ語でペンテコステ)日後、であった。 その日は、イエスが復活なさってから丁度50日目であった。 キリストの再臨を待ち望む人々が大勢で屋上に上り祈っていた。 すると間もなく、火の様に見える舌の形をしたものが、弟子たち一人一人の上に降りた。 この出来事こそが、決定的にキリスト教会の始まりとなったのである。

そして弟子たちは勝手に外国語を喋りだした。 それは周辺の国々の言葉であったが、本人達が行ったことも、聞いたこともない国語でもあった。 ただ、各地から祭りに集まっていた人々だけは、その言葉が外国語であると判断できた。

またこの日、集まった多くのユダヤ人たちは、神の御霊に満たされたペテロのメッセージによって心を刺され、自分の罪を悔い改め、バプテスマを受けた。 その数は三千人に及んだ。

イエスを信じた人々は群となり、一致協力し助け合いながら、祈りと交わりをし、喜んで私物を共有した。ペンテコステの日の出来事は福音伝道と教会形成のスタートであった。 弟子達は個人個人においても、力と勇気を伴う大胆な信仰に導かれ、凄まじいほどの活動に入った。それはまさに人間業ではなかった。 神の御霊、すなわち聖霊降臨が為せるものであった。

ペテロとヨハネが祈るため宮に上った際、宮の門の所に、いつもの様に生まれつき足の立たない男が座っており、次から次へと通る参拝者を見上げていた。 参拝者の僅かな「おこぼれ」だけが彼の日毎の糧を賄った。 そして参拝者と目が合うことこそ、彼が「おこぼれ」をねだれるチャンスだった。

だが、この午後はペテロにとっても、その男にとっても生涯忘れえぬ日となった。 ペテロは男を見つめて言った。 「よいか、私を見るのだ。私には金銀はない。しかし、私に有るものを上げよう。ナザレのイエスの名によって歩け!」 何か貰えると期待した男であったが、間髪を入れないペテロの言葉に言うがままであった。

「私に有るもの」・・・クリスチャンは考えて欲しい。 あなたは、それだけの価値と信頼をイエスに対して持っているだろうか? あなたの中で、それだけの力ある御名であろうか? 増してや、誰かにあげられる程の信仰であろうか? 私達は自分が生きるだけでいっぱい、いっぱいかも知れないのだ。

そして覚えよう。 ペテロがそこまで言いきったイエスという名、ペテロの期待と勇断をそれ程の極みまで押し上げることが出来たのは彼の内なる聖霊の力である。

男は確かにイエスの名を耳にした。 そして、それを自分のものとした。 ペテロの鋭い眼光と顔つきによってではない。 ナザレのイエスの名が彼の胸に飛び込み、刻まれた。 やにわに男は立ち上がった!そして躍り上がって神を称えた。

大胆に生きよ、それがその御名、イエスの名を信じる力である。 イエスの名こそ、キリスト者の希望である。 輝き、力、変革、チャレンジ、すべてこの名に潜んでいることを、若しかして人々は見落としていないだろうか。 この名をおいて知識も努力も修養も賛美も実に空しい。 新約時代が2千年前に幕を切って落とされたのに、今だ時間を逆行しようとする世界がある。 それは「私に有るもの」を見失ったからではないだろうか。

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