■ キリストに従属 / 第一ペテロ5:12~14 (2010-07-11)
- 第一ペテロ5:12~14
- 2010年7月11日
- 読了時間: 3分
サッカーのワールドカップがいよいよ最終局面に入った。 どの国の選手達も130%の力で戦っている。だから面白いのであろう。 しかし、通常のゲームにおいてはやはり80~90%の力で戦っていると思う。そうでなければ体が持たない。 ドイツの蛸、パウル君はどうも予言タコらしい。何ともナンセンスであきれ果てていたが、ここまでの6戦を当てたというから、大騒ぎするのも理解できる。 殉教覚悟で自国?の敗戦までドンピシャ!これにはビックリした。まるでエレミヤだ。 パウル君、スペイン対オランダの決勝戦を前にスペインの勝利を予言した。 この記事?を書いている昨日の早朝、スペインが辛勝した。パウル君の今後が思いやられる。 その名、もしかして「パウロ」ではなかろうか?
第一ペテロ、最後の数節を扱わせていただいた。 そこに出てくる二人の名前、シルワノとマルコ。ここからメッセイジが与えられた。 先ず、マルコ。彼は初めのうちは相当我侭だったとか。 周囲の先輩達を悩ました形跡が伺える。 若輩ながら折角の伝道旅行に参加させてもらったのに、途中で任務をほっぽり投げて、すたこら帰って行ったらしい。 暫くの後、そのおかげでパウロとバルナバという聖霊豊かに働かれる器の大先輩二人が大喧嘩してしまった場面が使徒の働きに出てくる。 あの二人も大喧嘩したと聞いて、妙に平安を覚えた。 喧嘩の原因は、無責任な若者マルコを再度同伴させるか、させないかで揉めた。
だが、それから数年後、マルコはパウロにとっても実に重要な働き手となったことがテモテの手紙で知ることが出来る。 「どうか私の所へマルコを送って欲しい。彼は私にとってかけがえの無い存在だから・・」 この言葉を読んで胸が熱くなる。 箸にも棒にも引っかからない、如何ともし難い者でさえ、先輩達の涙ぐましい忍耐と導きで、やがて素晴らしい人間になるのである。 やがてマルコはペテロの口述を筆記し、マルコ福音書を書きあげた。 神の摂理は、実に美しい叙事詩となって私達を感動の旅へといざなわれる。
シルワノ、彼は教養豊かで、繊細な感性と聖書の知識と知恵に恵まれた人であるが、厳しい迫害の中でもパウロと行動を共にし、福音伝道に身と心を捧げた。 彼はパウロ、テモテと共にテサロニケ人への手紙をしたためている。 そしてペテロの手紙を代筆したのである。 漁師という荒っぽいイメージのペテロの口述を代筆し、シルワノの感性が更に豊かな香りと味を加え、ペテロの手紙は多くの教会とキリスト者達を慰め、励ました。 特に第一の手紙から伺えるキリストの香りは、シルワノの賜物とタラントが余すところ無く発揮された。
手紙の最後の最後に紹介されるシルワノの名前。 『私の認めている忠実な兄弟シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り、勧めをし・・・』 この言葉を読んで、もう一度手紙を初めから読み直してみると、シルワノの信仰とキリストに養われた品性が漂ってくるのである。
読み過ごしてしまいがちな聖書の登場人物名も、その名前の向こうを想像し探求すると、神の愛と忍耐が垣間見えてくる。 キリストに従属、これが私達の最終目標であると思う。 自分以外の主人、イエスキリストに従い、仕え、彼のものとなって行く。 土地のチリから、すくい取られた人間が、神に仕える不思議こそ十字架とよみがえりがもたらした奇跡である。
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