■ 今、わたしにとって価値あること / 第一ペテロ5:6~11 (2010-07-04)
- 第一ペテロ5:6~11
- 2010年7月4日
- 読了時間: 2分
人間の価値観は変わって当然である、と思う。 10歳以下であっても、人は既に価値観を立派に持っている。 あなたの10歳以下の頃、どんな価値観を持っておられたのだろう?
例えば、その頃の私の価値観は親に喜んで貰う事に有った。 学校の成績の向上、家の仕事の手伝い等、いつも価値観が私を動かしていたと思う。 ティーンエイジの価値観はころころと変わった。人は青春時代、実に不安定である。 20歳に入ってから、遅まきながら自分の将来を考えた。何が自分にとって幸せなのか、何が目指すべき方向なのか。生きていて幸せに思える仕事は何かを考えていた。 30歳代はやはり家庭である。夫婦、親子、色々考えたが、実に自分中心の方向だけであった。 40歳代、人生の終盤を考えた。果たして一生を後悔しない生き方が出来るのだろうか? そして私は神に仕える道に導かれた。
ペテロの手紙を毎週扱ってみて知ったこと。 それはキリスト者としての価値観を改めさせられる程のものだった。 何と重いものを背負わされたのか、という思いがした。 だが二千年前、今のトルコ地方に散らされたキリスト者達は事実、そういう世界と環境に置かれたのである。 この手紙はまた多くの教会に読み回され、人々は大いなる励ましを受けたと思う。 ディアスポラ(離散)とも言える彼らは、目の前に置かれた呑めない杯を、飲み干しながら生きたであろうことが伺える。
生きる環境が変われば、人は自ずと価値観を変えることが出来ると思う。 価値を価値として、理想を理想として生きることも出来るであろうが、信じる神の故に生き方と理想を変えなければ、日々生きられないことだってあるからだ。 この平和な日本ではとても想像も出来ない世界がそこにあった。 ペテロの思いがひしひしと伝わって来る。
人の価値観は、その人の生き方を変える。 それは選択する方向さえも変えるのだ。 キリストに生き、キリストに死ぬことを最高の価値とすることを、人はやがて悟るのであろう。
創造主である天の父の価値観はどこにあるのだろう。 それは、私達人間そのものに向けられている。 仮に私が今日何を考え、どこに向かって生きていようと、天の父は関心を持って見ておられる。 だからこそ、ご自分の御子を死なせてまでして、人類を救う計画を実行された。 イエスと言う方は、私の罪の代価となられた。 天の父が人間という対象を、ご自身価値の最高位に置かれた創世記の時代、主は既に一人息子の死さえも視野に置かれていたのである。
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