■ 人の心、そう簡単に開けない / ヨブ記32:1~9、33:12~18 (2010-02-14)
キリスト教会、そして信徒一人一人、実に様々である。 先ず、教団が様々ある。実に微妙な部分での違いであるが、そこが譲れないところなのである。何も、そこまで拘らなくてもよいのに・・と思われるけれども、半歩も譲れないからこそ、これほどの教団教派が存在するわけだ。 そして、同じ教派の信徒さんが同じかと言えば、これがまた微妙に違った信仰の姿勢と形態と感じる。実にイエスさまは、寛容と忍耐、大らかな方であると思う。
ヨブと三人の友人の信仰と神、人間と宗教、倫理と実態、とめど無く彼らは語り明かした。 その内容をかいつまんで読んでみると、私達と大して遜色ない内容である。 訳したものであるから、理解し難い表現などあるが、理想と現実の間を行ったり来たりしている。 友人に対して懸命に自己弁護するヨブと、本当に問題が無いのであれば、これほどの困難が身の上に降りかかる筈がないと問い詰める友人達であった。
ヨブも友人達も心は開かれていない。 建前が先行し、批判中傷がその後を追う。 彼ら自身が問題にしているのは、人間の生き方のどこが正しく、何が間違っているかであり、彼らの神観でしかない。 人間の限界だけが漂っているのだ。 そこに神の介入などあろう筈が無いのだが・・・
人の心であるなら、その人が心を開くことは自由に出来るのか?と問われれば、出来ないと思う。 人は自分で心を開けない。開けるきっかけ、導きは神からであり、それが来なければ開かれない。 ヨブと仲間たちの討論の場に神は臨在もされず、関知もされていない。 神は単なる傍観者に徹しておられたように思う。 私達も仲間と話し合う場面、いかがであろうか? そこに神が臨在されるような会話と心が伴っているのだろうか? 神は介入される機会を探っておられることは間違いない。 だから問題は人間の側にある。
ヨブ記、私は二週か三週で引き上げる積りであった。 しかし、いざ足を踏み入れると、これは実に果てしなく、抜け出せない泥沼の様だと思った。 人間のどろどろした思いが流れ出てきて、止める栓も逃げ出す出口も見つからず、遂に二ヶ月が過ぎた。 しかし、何故ヨブ記がこれほど重く、そして燻ぶるかを学んだ思いはした。 それは、神を信じる世界と言うより、神を語る世界であったからだ。 神を知っているようで、人は結局何も知らず、暗中模索の35章の旅路だったが、 同時に捨てがたい印象と感情をもたらしてくれた。
神を信じるとは、実に恵みの世界である。 恵み無くして、信仰はやって来ない。 言葉を百万並べても一千万並べても、からし種の信仰一つには勝てない。 十字架と復活のイエスさまに感謝する他にどんな宝も価値を持たないのである。