■ ピリピ2章6節・ここにクリスマス / ピリピ人への手紙2:3~8 (2009-12-06)
イエス・キリストを信じる私達には「偶然」という言葉も概念も無い。 霊なる神の「御心と摂理」が働いておられるからだ。 「たまたま」も無ければ、「運よく」も無い。
私達夫婦がクリスチャンとなるきっかけは、一人のアメリカ人女性の存在があった。 32年前、家内は(私も、であるが)神の摂理の中に置かれた、というべきであろう。 彼女は毎週末、家内に電話をかけてきて、「日曜日、教会に行きませんか?」と誘った。 教会もキリストも大嫌いな家内は毎週断り続けた。 ある日、その女性は電話を切った後、さすがに落ち込んで泣いたそうだ。 「これほどキリストが嫌いな人がいるとは・・・」と。 しかし、彼女は諦めなかった。 チャンスは思いがけなくやって来た。そう、神さまは諦めなかったのである。 もし、あそこで家内が救われなかったら、今の私達は全く異なる人生であったのでは、とさえ思う。
「教会で映画を見せるから来ませんか。」 そして、家内は遂に折れて土曜日の夜、映画に付き合った。 その晩、聖霊は激しく家内の魂に触れたのである。 その晩、家内はイエス・キリストを心に迎えた。 そして翌日朝、家内は礼拝の場にいたのである。
かの映画はイスラエル、そしてユダヤ人の上におられた神に関するものだった。 約1年後、私は聖書からその神を受け入れ信じた。 つまり、あの女性の祈りと諦めない信念と信仰はクリスチャンホームを生むことになった。 だが、その時点で私達を見て、16年後に牧師夫婦となるとは彼女も100%想定しなかった筈だ。 ちなみに、彼女の夫は今も救われてはいない・・・ 神の摂理は実に不思議な世界を造る。
ピリピ2章6節にこうある。 『キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで・・』 神のあり方を捨てることが出来ないとは考えないで・・・・ だからクリスマスがある。 神のへりくだり、これがクリスマスの原点、イエス・キリストの御降誕となった。 霊なる神は、御座にあるすべての栄光を捨て、罪ある人類のために、神のあり方を捨てて、人間の形をとられた。 ましてや、キリストは人間が受けるべき罰を身代わりとなられた。 身代わりだけでなく、彼を信じる人々を永遠なる神の国へと導かれた。
天国へ行きたくて教会を訪問する人は先ずいない。 イエスに出会って、誠の神を信じて永遠の命を与えられるのだ。 その人たちの人生は多種多様であるが、神は彼らに出会うべく摂理を働かされる。 振り返れば救いに至る道とは、実に妙なる不思議なものである。 あちこち紆余曲折しながら生きていた道のどこで神は待っておられたのだろう? ふと、そんなことを考えてしまう。 だからもう一度、不思議なる助言者に思いを馳せてみたい。