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■ 彼に信頼する者は決して失望しない / 第一ペテロ2:4~8 (2009-11-01)

  • 第一ペテロ2:4~8
  • 2009年11月1日
  • 読了時間: 3分

大根のへたに小さい葉が付いたまま、生ごみ袋行きとなったので、何となく憐れに思えた。 そこで庭のツクバイに葉から下の「へた」だけを漬けておいたら、暫くして葉はどんどん育ち、やがて細い茎が伸びてきて、幾つもの花を咲かせた。 小さいけど薄紫で何とも可憐な花である。 おそらく、大根に花を期待する人などいない。 しかし、本来は咲かすべくして、創造主から備えられた花である。

人間は果たして本来の生き方、生かされ方をしているだろうか? 創造主に帰り、被造物の思いを持って、神を見上げているだろうか? 神が意図された花を咲かせているだろうか? 大根の花を見ながら、ふと考えた。

第一ペテロ2章、ローマ書9章と10章、そしてイザヤ書28章に登場する言葉。 「彼に信頼する者は、決して失望しない」思わず、この言葉の最後に「!」の印を振りたい気持ちである。 人生が順風満帆であるなら、この言葉に何の気後れもせず、アーメンである。 しかし、艱難辛苦の真っ只中で、果たしてアーメンと言えるだろうか。 感情として言えない所であっても言って行くのが信仰だと思う。

聖書が言う「彼」とは、イエスという人間が捨てた石である。 しかし、神は「その石」を、霊なる宮、信仰の家の礎石と位置づけて、この世に降された。 私も昔はその石を捨てた。その石の価値を知らなかった。 しかし今や、その「石」は「頼りの岩」である。生ける岩である。 そして私達キリスト者も生ける石の一つとして、霊の宮へ組み込まれる。

私達「生ける石」は「生ける神」の「生ける器」でもある。 いつも生ける神を信頼するなら、生きた祈り、生きた礼拝、そして生きた一週間である。 本来はこれが私達の日々である筈。 ところが、現実はどこもかしこもチグハグである。 アパ・ルームに一人の兄弟の証が、私の胸を刺した。 神の全能を見たからだ。クリスチャンがチグハグだとしても、神はとんでもない方である。 祈る思いがどんな心であったとしても、神は聞いておられる。怖ろしい方である。

その兄弟が若い日、ある作業所に働いていたが、彼の職場には最悪の上司がいた。 意地悪、乱暴、傲慢、無道徳、非常識、あらゆる悪い印象と実態を着た様な男であった。 誰もが彼を嫌い、誰もが彼を憎んだ。 兄弟とて、その男を憎んだ。しかし、仮にもクリスチャン。そこで、彼は憎い上司のために祈ったそうだ。どれほどの真実な思いであったかどうかは分らない。

それから暫くの年月の後、昔を知る仲間に出会った。 そこで、兄弟はかの憎い男のその後を仲間に尋ねた。 彼の期待は、あの上司が今は悪い環境で苦しんでいれば良いのに、とさえ思ったそうだ。 仲間が言った。「ああ、彼のこと?彼は今、牧師になっているよ。」 兄弟は愕然とし、そして改めて自分の罪深さと、神の力に砕かれた。

私自身もそんな者であった。 昔の私を知る人ならば、誰一人として納得しないであろう。 私が牧師となっている今を。

そう、私も大根の花の様な者である。 誰もが期待したわけではないが、神さまが見捨てられなかった。 大根のへた・・捨てるしかないものだけど、神が私を生ける水場(キリスト)に差してくださった。

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