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■ 主よ、みことばをください。 / 第一ペテロ2:1~3 (2009-10-25)

  • 第一ペテロ2:1~3
  • 2009年10月25日
  • 読了時間: 3分

私がたまにウォーキングする公園に、名も知らない大きな木の並木道がある。 春先から秋にかけてその木の下に行くと、香ばしい心地よい匂いがする。 言葉で表現出来ないのが残念であるが、実に心地よく懐かしい自然の香りがする。 長い間、この木の名前を知らないでいたが、最近になってようやくと分かった。 「桂の木」と言うらしいが、匂いは上から降ってくる。つまり葉っぱからである。 最近、秋に入り黄色く色づいて来た。香りは尚更に麗しく漂う。落ちた黄色い葉の上に立つと、何と香りは足元から立ち上ってくる。 死して尚、麗しい香りを放つ木の葉っぱなぞ、ついぞ出会ったことがない。 見事な死出の旅立ちである。 創造主の不思議で見事な知恵を見た。

本当はキリスト者こそ、こうありたいと思った。 生きている限り、人々に神の祝福を配給し、死んで尚、誰かを力づける。 そういう先輩もたまにいる。 凡人クリスチャンの私なども、本来はそういう期待を神からかけられていると思う。 しかし、それはキリストさまのみぞ可能なことである。 それを目指して生きられるわけもなく、何よりもイエスさまになれる訳も無し・・ と、思ったが聖書はそうは語らない。 「キリストの日が来るまで、神が完成させてくださる。」とピリピ人への手紙が言う。 肉で始まり、霊で終わる。 桂の木にはなれないが、生かされている時間の中で、出来るだけ用いていただきたい。

日々のデボーションで願うこと。 それは、「主よ、御ことばをください。」である。 今日を生きるに必要なみことばをお語りください、と願う。 しかし、「・・ください」よりも、大事なことは聴こうとする霊の耳であり、受け入れる霊の心であり、刻まれるべき私の心の用意であると思う。 主を待つに相応しい霊的飢えと渇きが大切と思う。求道者とはそういう者だから。

「主を愛する人生?」か「主に愛された人生か?」どちらを望むか?と自問自答する。 私自身、自分は本当に愛されていると確信するが、しかし、願わくは「主を愛した人生」でありたいと思った。

更に、「主に仕えるか?」「教会に仕えるか?」と考えてみたが、当然「主に仕える」である。 教会は「キリストのみからだ」と言われるが、教会は神ではない。 教会はキリストを頭とする信者の群れであり、召し出された者達の集まり、つまりエクレシアである。 主に仕えるからこそ、教会に仕えることが出来るのである。 教会が先行することは決してない。 しかし、何と多くの人たちが教会を優先していることかと思う。 奉仕が神になっていることも多々ある。 奉仕は神に対してさせていただくのであって、仕事が神になってはならない。 すると、牧師である私は、捧げる奉仕によって給与を貰っているから、妙な感じになる。 奉仕を売っていないか、などと、ついぞ勘違いしてしまう。 とても桂の木になどなれない。

毎日、主とつながることが必要だ。 主としっかりつながればこそ、人々に仕えることが出来る。 「わたしにとどまりなさい。わたしを離れて、あなた方は実を結ぶことは出来ない」と主はヨハネ15章で語られた。 主よ、あなたに留まるために、どうか御口から語られる言葉をいただきたいのです。

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