■ 草は枯れ花は散る / 第一ペテロ1:22~25 (2009-10-18)
- 第一ペテロ1:22~25
- 2009年10月18日
- 読了時間: 3分
人間の存在を聖書はこの様に語る。 確かにそうだ。人の一生、命、存在、確たるものはない。 今日であろうと、100%生きて終わるとは限らない。 昨日まで元気だった人が、今日は死に、そして明日は火葬にふされ、跡形もなくなる。 牧師として15年の間であったが、幾度も人の死に立会い、見送った。 その都度、感じたことは「人間の何とあっけない存在か」だった。
夏の早朝、草の葉に乗った露の玉。 清らかで銀色に輝いている。 しかし、日が昇り、暑い太陽の陽射しが葉の上に来た頃、瞬く間に消えてしまう。 私はいつも思う。人間の命も露の玉でしかない。 その瞬間が来れば、直ぐに消えてしまう。
「主の息吹がその上に吹くと」と預言者は語る。 その時(死)がいつかはわからない。しかし、誰の上にも必ず訪れる。 人生が60年か80年か分からない。しかし、永遠の神を知ったとき、その短さに驚いた。 誰に聞いても答える言葉が決まっている。 それは「人生とは何と短いことか」である。
野の花の小さくて、たわいない存在も人間の存在と似ている。 神の憐れみを楽しみ、時至れば、花も散り草も枯れる。 幾ら人生で大輪の花を咲かしたとて、時至ればすべての終わりが来る。
しかし、野の花は短い生を力の限り生きている。 明日を思い煩うことも無く生きている。 人はどうだろう。明日どころか、10年先さえも思い煩う。 死が訪れるなら如何ともし難いのに、死に方さえも思い煩う。 もっと、この一日を楽しみたい。したい様にではなく、生かされている喜びを楽しみたい。あなたはどう思われるだろう?
中川恒子さんというクリスチャンのことを考えた。 彼女は結婚して二年で結核を患ったそうだ。 たった一人の幼子の世話も出来ず、夫とも離別した。 そして25年間、病魔に向き合った。 やがて花と散った。 いいや、草として枯れた。 その彼女が死の直前、包装紙の裏に遺書を書き残した。
『すばらしい召命です。 歓喜でいっぱいです。 私は本当に恵まれた病人でした。 私を生かし、よく用い、そして死をとおして神のみもとにまで引き上げてくださる イエスさまに感謝します。 お支え下さった沢山の方々の真心と愛、それこそ私のクスリ、私の宝でした。 ではまた天国でお会いしましょう。 ごきげんよう。』 著書・ベテスダの池のほとりで
草は草でも、人間という草は生き方がある。 神を知り、神を信じて生きる生き方と、神を拒んで生きる生き方が。 生きている内に楽しみを貪る生き方と、この一日を神と楽しむ生き方が。 草は枯れ、花は散る。
毎週日曜、これから生きる限り礼拝に行かねばならない人生なのか、とクリスチャンになった当時思ったものだ。 しかし、そんな男が今、教会の牧師をやっている。 それは、草さえも慈しんでくださる創造主を知ったことと、創造主の圧倒的な力によるものだった。
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