■ 神よ、我を赦して用い給え / 第一ペテロ1:8~16 (2009-09-20)
- 第一ペテロ1:8~16
- 2009年9月20日
- 読了時間: 3分
人は20年掛けて大人になる。(但し、この国の法律上であるが。) クリスチャンは何年経ったら、成人と言えるだろうか? 分からない・・が私の実感である。 自分にせよ、もう31年を超えたのに、まだまだ成人と思えない。 きっと、生涯発展途上のクリスチャンなのだろう、と思う。
自然界の生き物は生まれて数時間で、自分の足で立ち、自分のこと位は出来るようになる。人間の赤ちゃんだったら、とてもそうは行かない。少なくとも二年近くまでオムツが取れない。 乳も長い間手放せないし、固いものも食べられない。 クリスチャンなど数十年、固いものが食べられないから、何とも手が掛かる。 ああ、天の父は何と寛容で忍耐深いのだろう。
それでも、クリスチャンは神さまの愛で育ち、成長は続く。 神を見上げ、イエスを信じ続けるならば、である。
たましいを救われた喜び、この救いとなる力と約束は、遠い遠い昔に預言者に与えられた神の言葉であった。預言者は、その約束が誰に向かって語られ、それがいつの時代に成就するのか定かではなかった。しかし、やがて彼らは知った。それは遠い未来のいつか、実現されることを・・と、ペテロは第一の手紙1章に記している。
イエスの十字架とよみがえり、これこそが預言の成就であった。 ペテロはこの手紙を書いたとき、見えない相手、宛先のキリスト者のことを思いつつ、預言の成就を確信した。彼らが新しい命をいただいた故の喜ぶ顔を想像しながら。 生まれて間もないキリスト者であるのに、今は離散し寄留しているトルコの各地で、困難の中にも魂の救いを感謝している。 遂にあの古い約束は、新しい命を生んだのだ。
私の数ある弱点の中の一つ。 昔、著名なクリスチャン(カルバンであったか?)が語った言葉が指摘している。 「栄光は主に、恥は私に。」これを聞いていつも思い返される。 《栄光は主に。・・・・・私にも栄光を・・》これが私の偽らざる内面である。 人間とは各も弱く情けない。断ち切れないというか、捨てきれない感情の一つである。
アパ・ルームの投稿者は、彼女の若い日、赦せない感情に負けて、その朝、礼拝を休んだ。 そして子供に乳を飲ませようとしたとき、彼女は声を聴いた。「赦しなさい。」 それから50年、彼女はいつもあの朝の言葉を思い出しながら、クリスチャンとして生きてきたそうだ。
この8月、アメリカの国務長官ヒラリー・クリントン氏がアフリカを訪問した。 さほど大きい会場ではなかったが、若者達の質問を受けた。 一人の青年はヒラリーさんに向かって「その件について、あなたの夫、クリントン氏はどういう感想をお持ちでしょうか?」と言った質問であったように思う。 壇上のヒラリーさんの顔は、見る見る怒りが漲ったように見えた。 そして彼女は青年に向かって、明らかに怒りの感情で返事を投げつけた。 「私が国務長官であって、夫の問題ではありません!」 会衆の面前でおこられた青年の自尊心は相当傷ついたであろう、と察する。 だが、ヒラリーさんは会の終了時、かの青年に近寄り握手を求め、こう言った。 「さっきは質問をありがとう。」 この小さいフォローが、出来るか出来ないかで、その人の大きさが計られると感じた。 感情とは厄介だが、その後に何が出来るかで、人間関係は変わる。
こういった感情を制するのも成人ゆえになせるわざであろうか。
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