■ 主は振り向いて、あなたを見つめられる / ルカの福音書22章39~62 (2009-04-05)
最後の晩餐をとられてから、イエスは弟子達の面前でペテロにいわれた。 「わたしはあなたの信仰が無くならないように祈った・・」 思いもしなかった言葉を皆の前で、しかも名指しで言われたペテロであった。 弟子達の中でリーダーを自負するペテロのプライドは、持っていく場が無かったであろう。 彼は自分の頭の中で整理がつかぬうちに、言葉だけが口走って先を走った。 「主よ、私はあなたがご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟は出来ております!」 言い放つペテロに向かって主は静かに語られた。 「ペテロよ。あなたは今夜、三度わたしを知らないと言う。」
人間はあらゆる誘惑に会う。しかし、誘惑の中の幾つかは私達のとどめを刺す。 意思強固な訓練を積んだにせよ、ある誘惑にはかなわないものだ。様々な訓練を経た者であるにせよ、心を訓練することは容易ではないし、鍛えきれない。
人は決して完璧にはなれない。 それは人間であるからだ。血と肉を持ち生きるものは、限界があるし、それで良い、と私は思う。弱点があるからこそ、人間らしい。弱さがあるからこそ、どこかに温もりがあるのだ。弱点があるのに、無い様に、見せないように生きている人からは、温もりは微塵も漂って来ない。
完璧はイエスだけ、と思っていた。確かに彼だけである。だが、イエスは敢えて、弱さを背負ってくださった。園で祈られるイエスは、余りにも人間的であり、そして余りにも強かった。 「父よ、出来るものでしたら、この盃をわたしから取り除いてください。しかし、父よ、わたしの願いではなく、あなたのみこころを行ってください。」
このゲッセマネの園で祈られた祈りこそ、「主の祈り」であり、私達が目指すべ祈りの心であり、信仰生活の究極ではないだろうか。 主は人として、ご自身の率直な思いを祈られた。それは強い願いでもあった。 そしてイエスは、天の父の御心が優先するようにと祈られた。
ユダ、イエスを銀貨30枚で祭司達に売った男。裏切りのユダと呼ばれる。 そして、弟子達の中でイエスに一番期待をかけたのは、ユダではなかったか、と私など思ってしまう。 人間、大きな期待をかけた相手に対しては期待が大きいほど、その期待を裏切った相手を厳しく批判したくもなる。更に、場合によっては憎悪し、殺意さえ抱く。 ユダはイエスに期待し続けたが、ユダの思ったイエスではなく、イエスご自身の使命に生きられた。ユダの失敗は、イエスを知りきれなかったことであろうか。 更にイエスが余りにも簡単に捕らえられた瞬間、ユダは自らを裁いた。 ユダの最後の期待は、超自然的な力を発揮して、捕縛の手から逃れて欲しい、ではなかったか。 ほふり場に引かれる子羊のようなイエスへの申し訳なさと、自らへの憎悪は自殺という結果になった・・・と、私など考えてしまう。
夜中、焚き火で暖を取る人々の中にペテロの姿があった。 彼はカヤパの家で裁かれるイエスをうかがっていた。 こぶしで殴られ、唾をかけられるイエスは三年の間、雄雄しく、凛として生きておられたイエスではなかった。 女中の一人がペテロを見つけて言った。 「そこのあんた~、ほれ、あのナザレのイエスと一緒ではなかったん?」 思わぬ言葉を打ち消して、ペテロは暗がりに顔を向けた。 すると、傍にいた男はペテロの顔を覗き込むようにして言った。 「う~ん、そう言えばそうだよな。あんたもあの男の仲間だろうが?」 ペテロは再び否定し、あたかも背中を火に向けて暖を取る振りをした。 だが、既に焚き火の周りの目は、いっせいにペテロの顔を覗き込んでいた。 「そうだ!あんたは確かに、あの男の仲間だ!」別の男が叫んだ。 「何を言っているんだ!私はイエスなど知らん!」
言い終えないうちに、鶏が鳴いた。 主は振り向いてペテロを見つめられた。 ペテロは焚き火の輪から飛び出し、暗がりへ走りこんだ。 彼は激しく泣いた。
あのイエスの目にあなたは何を感じるだろう。 私は昔、仕事の関係にある人々の前で、自分が救われている者、クリスチャンであることが言えなかった。 生まれ育った地域でも信仰のことは押し黙っていた。 教会に通っていることが言えなかった。 教会で楽しく神をたたえ、交わりにあることも言えなかった。 日曜の自分は、ウィークデイの自分ではなかった。 そのギャップが恨めしかった。 幾度もイエスを否定し、幾度も彼を隠した。 そして、ルカの福音書のイエスの目が辛く痛かった。
そして神は、地域に対し、イエスを証しするチャンス与えられた。 その試練を超えた頃から、神は私を牧師への道に導かれた。 そしてこの五月の末、私は牧師として丸15年を迎える。