■ 泥沼に咲く蓮の花 / 黙示録3:14~22 (2009-01-18)
人間が逃げられない二つのことがある。 人間は誰しも年をとり、やがて死ぬ。どうもがいても、こればかりは仕方ないことである。 もう一つ、人は生涯、罪びとである。 私の31年間の信仰生活で学んだ結果であり、事実そうであると思う。別にたいそうに言う必要もないのだが・・ イエスさまを信じ、赦しを乞い、罪赦されたクリスチャン人生であるが、人は生きるところ、やはり罪びとである。 だから、パウロはローマ7章の最後で絶望の様な叫びをあげている。 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか・・・。」 「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」 これがクリスチャン人生と思う。罪を認め、赦され、そしてまた罪を悟る。
教会はこの世の天国である・・・そうだと思うし、そうある「べき」だ。 だが、「べき」と表現しなくてはならないところに、苦しいものがある。 教会の頭はイエス・キリストである。そして、キリスト教会と名付け、そう自負し呼ばせている。 しかし、やはり人間的な思いが先立ってしまう部分も否定できない。 どの教会であっても、どこかに人間の弱さが見えている。そこに教会の醜さをついつい見てしまう。 だが、同時に同じ次元で神の愛に出会う。弱さの中に、醜さの中に、神の憐れみを感じるのが教会でもある。 昔、思った。「これでも教会!」そう、自分の醜さは棚に上げても、他者の醜さは見えてしまうからだ。 やがて見方が変わってきた。 これでも教会から「だから教会」に目線を変えられた。 神がそこにおられる。神が一人一人の信徒を哀れみ、寄り添い、嘆いておられる。そして、悔い改めを待っておられる。神の愛は、教会の上に決して尽きない。「神は愛である」を実感する。
黙示録に7つの教会が登場する。 7番目がラオデキヤの教会である。 この教会は最も厳しいことばを主から突きつけられた。 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
いいかげん、ではいけないのだ。良い加減ではだめなのだ。 風呂なら良いが、「信じて生きる世界」では通用しないことである。 信仰は信じることから始まるが、信じるとは生きる世界が変わることである。 信じるとは価値観を変えることである。信じるとは、云わんや捨て身になることである。 我が身と思いをぬくぬくと守るような生き方は、ぬるくも熱くもない、と主に言われる。
だが、黙示録の言葉は切り捨てただけではない。 切る意味を語る。それは「愛するがゆえに・・・」とある。 箸にも棒にもかからぬ教会に向かって語られた厳しいことばは、「愛するがゆえに」であった。 「だから教会」なのである。 キリストの名をかぶせられたのは、人間達の思い以上に、主が許されたからである。
「わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは中に入って彼と共に食事をし・・・」 7つの教会への言葉の中で、もっとも親しくもっとも心に迫る言葉は、なんと最も駄目なキリスト教会、ラオオデキヤに向かって語られたものだった。 神は決して見捨て給わず、である。アーメン