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■ 汝はキリスト、生ける神の子なり / マタイ16:13~17 (2008-10-19)

人間、精密に考えると、その内側はいつも揺れ動いている、と思う。 キリストを主と信じることは動かずとも、主に従うと言うこととか、主を喜ぶこととか、主と共に生きるとかは、絶えず微妙に変化していると思う。 そこで、副題を「死んだり生きたり、眠ったり」と考えた。 長い人生においては、当然と考える。 そして、揺れ動く自分を知って、情けない・・なんて思う必要はない。 それほど、神経を配って、己が心に向かい合っている証拠だと思う。

いつも変わらないのは、主キリストだけだ。 だから、今日もクリスチャンでいられる。 「私は変わらない、ぶれない」なんてお方は羨ましい限りだが、それだけ思い込みが激しいのか、自信があるのか・・・ イエスさまの私へのとりなしの祈りなど、いつも必要である。

人間、生きるために先ず必要なのは酸素である。 息を吸って吐く。この繰り返しで生きているが、別に意識などしていない。 当たり前の如く、吸っては吐く。 だが、信仰がいつも活き活きとしているためには、神の息が必要だ。 神の息を吸う、吐く、という活動は、意識しなければ出来ない。 内なる呼吸、とでも言おうか。これがなければ、いつも自分中心の信仰となる。 内なる聖霊により頼んで生きようとするなら、神の息によって生かされるしかない。

「人々は、わたしを誰と言うか?」とイエスは弟子たちに向かって聞かれた。 その時、間髪を入れず(と、感じてしまうのだが)、ペテロがイエスに向かって宣言した言葉がある。 「あなたこそリスト(救い主)です。生きておられる神の御子です!」 イエスさまはそれを聞かれて、ペテロにこう言った。 敢えて、文語体で言うと、 「汝は幸いなり、汝にこれを示したるは、血肉にあらず。天にいます、我が父なり。」 まさに、イエスのお顔が浮かんで来るようだ。声高に仰られたに違いない。

ペテロは有頂天になった、思う。それは十分理解できる。 だが、イエスのおことばを、かみしめて考えると、別な深い意味があると思う。 イエスはペテロ自身を称えたわけではない。 幸いなり、と仰ったが、イエスが感嘆されたのは、告白自体が天の父によるものだったからである。 ペテロは神の御霊に満たされて、今こそ言うべき真実を告白した。 その後しばらくして、「私はイエスなど知らない」と幾度も否定したのは、血肉のペテロであった。

人間は確かに弱い。だが、主が共におられる人は実に強い。 試練に耐え、困難の壁さえ打ち砕く。 それは彼が弱くとも、主が強い方だからである。

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