■ ノアその6・血は命だから / 創世記9:1~7 (2008-09-07)
- 創世記9:1~7
- 2008年9月7日
- 読了時間: 2分
箱舟から降りたノアと家族に向かって、主はあることを語られた。 それは「血は命である」ということであった。
旧約聖書は基本的に、血を飲んではならない、である。肉は食べても良いが、血を含んだ肉は食べてはならないのである。血は動物の命であるから、命を飲んだ、食してはならないのである。
神の祭壇に血が降り掛けられた。 旧約時代、絶えず行われた儀式である。 血の意味は、捧げる人の罪のため、神の怒りを静めるべく和解であり、そして赦されたことへの感謝の意味があった。 血を捧げる人は、ヤギ、羊、牛といった動物を殺し、その血を器にすくって祭壇に捧げた。 イスラエル人の礼拝には、いつも動物の血が流された。
その現場をイメージして欲しい。賢い動物なら、自分が殺されることを予感し、必死になって後ずさりするとのことだ。屠殺場、豚はそうでもないが、牛は嫌がって前に進まないとのことだ。 殺されるために動物は地面に首を押し付けられるのだろう。 若しくは眉間を鋭い刃物で突き刺されるのだろう。血が必要だからだ。人間のための。
ヘブル人への手紙は言う。「血を流すことなしに、罪の赦しはありえない」9:22節 私、そしてあなた、一人の罪びとのために、罪無き動物の血が流された。 しかし、人間は限りなく罪を犯す。犯すのではなく、生きてゆくところ、罪が伴ってしまうのだ。まことにそう思う。そのために又、新たに動物が死んだ、それが昔であるならば、である。
神さまは永遠にこのことの解決を図られた。 それはすべての人間は罪を犯す。ならば、どうしたら決定的な赦し、救いを与えられるのか? それは、罪無き人が身代わりになって血を流し、命を捨てること。 罪無き人が地上にいるのか?一人として、いないのである。 神さまは身を切る思いで、一つの計画を立てられた。 それは、御子イエス以外に相応しい生贄はない。そう、イエスが血を流し、殺されなければ、人間の救いのための代償はない。
私のために、あなたのために、彼のために、彼女のために・・・ いつも一人称である。・・達ではない。私は達が嫌いだが、他に総じての表現が無いので、私達と言ってしまう。 「血を流してはならない」と言われる主が、御一人子の地を流された。 私のために・・・あなたのために・・・ 愛する兄弟姉妹、その痛みを我がこととして考えようではないか。。
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