■ たとい今は分からずとも、やがて後、あなたが知る時がくる / ヨハネ13章1~13 (2008-06-01)
この五月、アメリカのプロゴルフ・ツアーで日本人選手が優勝した。 今田竜司選手、31歳である。遂にメジャーで花開いたが、彼は14歳で単身渡米し、将来のメジャー・プレイヤーを目指した。17年間、他人には理解できない試練があったと思う。 若い日、あのタイガー・ウッズ選手と同格だったと言われている位の選手だ。メンタル・スポーツのゴルフ界で、幾度も挫折し、落脱の憂き目にあったことだろう、と想像するが、 彼の言葉に「一度落ちてしまったら、二度と這い上がれなくなる様な気がする。だから、石にかじり付いてでも、やらなきゃ」とあった。
だが、そここそ、私達クリスチャンに欠けているところ、ではないかと、ふと思った。 確かに一つの危機感が継続への力であることは間違いない。 スポーツ選手は、この世の栄冠のために、多くのハードルを乗り越える。 私達は天国の冠りのために生きる。 頑張るのではない。 主イエスと生きるのだ。イエスと生きれば、幾度落ちてもイエスが助け起こしてくれる。
クリスチャン信仰には多くの艱難辛苦がやって来る。勿論、来ない人もあるだろう。 だが、神さまは、御自身が使いたい、用いたいと思う器には、特に試みを「たんと」下さる。だが、それはどうも神の愛に比例しているらしい。聖書も確かにそう語るし、旧約の登場人物もそういう人生を歩かされた。 そうやって、神さまは、神の子どもたちを育てられたのである。 多くの場合、「なぜ今なのですか?」「なぜ、私だけに?」「どうして?」と言わざるを得ないのであるが、何故そう思うかと言うと、試練の意味と、それがやってくる理由が分からないからだと思う。
まことに人間は先が見えない。先が見えるお方は、神さまのみ。 ここが辛いが、こここそ神さまを信じきることにおいて、私達が訓練される所である。 今がいかであれ、今が苦しくても、神を信ぜよ。 ひたすら、主に委ねよ。 あなたの神は、あなたを愛する故に、子と思っておられるからこそ、のものである、と信じて。
「汝、今知らず。やがて後、悟るべし」とイエス様は、最後の食事の際に言われた。 「あなたがたは、今は分からない。しかし、後になって理解できる時が来る。」 それは食事の途中で、弟子達の足を洗われた時であった。 主に足を洗わせることを、ペテロは拒んだが、そのペテロに向かって、主が語られた言葉だ。 イエス様に足を洗われる意味がペテロには分からなかった。 イエスは迫り来る十字架と、残された少ない時間を思いつつ、弟子達に対し余すことなくご自身の愛を与えられた。
状況は違ったにせよ、私にとって主イエスの、この言葉にはいつも励まされる。 先が見えない、起こっていることの意味が分からない人間。 希望が見えない時の辛さ、問題ばかりの環境、息さえ、したくなくなる様なとき、 是非、イエスさまの言葉を思い出して欲しい。 「汝、今知らず。やがて後、悟るべし」