■ イエスさま、私に何をされるのですか! / マルコ5:1~20 (2008-04-27)
ある日、イエスの一行はガリラヤ湖の岸辺にある、村にやってきた。 そこはギリシャ人が住み着いた村で、風習も建物もギリシャ風であった。 すると、一人の男がイエスを迎えた。 その男は汚れた霊にとりつかれ、誰も彼を押さえつけられず、墓場に鎖でつながれていた。 彼は夜昼叫び続け、自分で自分の体を傷つけていた。 その男はイエスを遠くから見つけ、イエスを伏し拝み大声で叫んだ。 「いと高き神の子、イエス様!一体、私に何をしようとされるのですか? どうか私を苦しめないでください!」
不思議な場面である。 その村の住人は誰一人、イエスを迎えなかったが、悪霊に憑かれた男だけがイエスを迎えた。そして彼はイエスを「知っていた」のである。 汚れた霊であろうと、霊は霊である。 まさに霊は霊を知るのであろうか。神の御霊に満たされたイエスを、悪い霊は見抜いていた。
昔、私がクリスチャンになった頃、古い自分と新しい自分を行ったり来たりの生き方をしていた。(今も大して変わらないかもしれないが。) つまり、悶々の信仰生活であった。 ある日は主をたたえ、ある日はこの世を愛し・・・ そして呟いた。「イエス様、もう私を苦しめないでください。あなたと生きることは苦しいのです。平安がないのです。ですから、私から離れてください。」
しかし、実に、信仰生活とはこういった日々が少なくない。 「今から主イエスとだけ生きるのだ!」と決心した瞬間から、途端に何もかも不安になる。 不思議である。 人間とは各も弱い生き物だ。 見える世界に安心し、見えない方に安心できない。 だが信仰とは、「その見えない神を信頼せよ」の世界なのである。 きっとそれは、私がこの世に絶望していないからであろう。この世に絶望しなければ、本当に、神だけに信頼しきれないのだろうか。情けないものである。
ならば、かの男のほうが「まし」なのであろうか。 何はともあれ、彼はイエスを伏して拝んだ。そして「神の子、イエスさま!」と大声で叫んだ。 これ以上ないバラバラの、極限の状態で、彼はイエスを求め、そして叫んだ。 そして、イエスは彼を清めた。
この話を他人事と読むか?または己が身に映して考えるか? 自分の中に波風を立てられるような場面である。だが、その波風が必要なのだ。 救い主の前に伏して、赦しを乞わねばならない身と心である。
「イエスさま、私に何をされるのですか?」 献身しきっていない者ゆえの困惑に満ちた声である。