■ 私は私の神を信じる / ヨハネの福音書9:1~12 (2008-04-20)
「神を信じるキリスト者にとって、最も難しいことは?」とシャルル・ド・フーコー宣教師は問うた。彼はサハラ砂漠で殉教した人だ。 それは「神を信じること」であるそうだ。「?」と考えてしまう人も多いだろう。 だが、私もそう思わされる場面が多々ある。 「信じる」、本当に?どれくらい?絶えず?どんなことが起こっても? 瞬間的にはいつも自分で何とかしなければ、という思いが働く。それは誰しも、であろう。 だから、神を信じる者にとって、最も難しいものなのだろう。 だが、それは同時に信じている故に、であるからだと思う。 目の見える私達にとって、目の前が真っ暗になることは、何とも辛い。
先日、テレビで生まれつき全盲の青年が20歳でプロのピアニストになったことを放送していた。 鍵盤は勿論、楽譜さえ見えない。彼のピアノは彼自身の感性と指の感覚、そして見えない目が働くのか、と思ったが、私は神を感じた。 神は彼に眼を与えて下さらなかった。しかし神は、見える肉眼ではなく、想像する眼、創造する眼、触覚と聴覚と同等に働く「霊的な眼」をくださった、と思った。 彼が幼い頃、お父さんに手をひかれ、隅田川の辺を散歩した時に聞いた川の流れる音を思い、「川のささやき」という曲を作った。 でも、それは隅田川ではない、と私は感じた。美しい大自然の中を流れる川だった。 その曲を聴いていると、本当に癒される。目の見えない青年の心には、それほど美しい川が流れているのだな、と思った。 彼の見たことも無い川は、私にとって言葉に言い表せないほど、美しい川であった。
イエスと弟子達の前に全盲の男性が居た。 「主よ、この人の目が見えないのは、彼の罪ですか、それとも両親の罪ですか?」と弟子はイエスに聞いた。実に心が痛む会話である。 「この人」と表現されるほど、近くにいたであろう状況が目に浮かぶ。 彼は生まれてからずっと、そうやって人々の声を聞き続けてきたのだろう。こちらの心が掻き毟られる思いがした。 しかし、主は答えられた。「この人の罪でも、両親の罪でもない。神の栄光がこの人に現れるためである。」
イエスはしゃがみ、唾で泥を練り、それを男性の目に塗って言われた。 「行ってシロアムの池の水で目を洗いなさい」 そして男は言われたとおりにシロアムの池に行き、洗ったので彼の目は開いた。
彼はイエスを信じた。 生まれつき、100%回復しない視力と知っていたであろうが、彼はイエスを信じた。 泥くらい、とバカにせず、言われたとおり、シロアムの池まで歩いて行った。 泥を塗られただけでは、目は開かなかった。わざわざ行って洗ったからである。 信じることは簡単だと思う。しかし、信じきることは更に難しい。 そして、信頼し続けることはもっと難しい。