■ 最後の晩餐 / マルコの福音書14:10~26 (2008-03-02)
イスカリオテのユダ、イエスを役人や祭司長に売った男である。 悪の象徴の様ではあるが、彼をもう少し別な角度から考えて見ると、単なる悪人ではない部分が見えて来る。 私は12人の弟子の中で、ユダは他の誰よりも強い期待をイエスに対して持っていたと思う。但し、あくまでユダ個人の勝手な想像と期待であったのだろうが、イエスに対する期待は強かったと考える。彼の身勝手な期待であるとしても、それが強ければ強いほど、裏切られた時の衝撃は大きく、憎しみとなって、過去の恩を返す結末となった。
強烈な好意を持って接していた人間関係が踵を返すが如く壊れた場合、ショックと反動は大きい。こういうケースはままあることだ。ユダもおそらくそういったケースではなかったか、と思う。 ユダは銀貨30枚を貰って、イエスを裏切ったが、その金に目が眩んだのではないことは、聖書を読めば分かる。彼はその金を神殿に投げつけたが、イエスに対する自身の行動にショックと同時に、自分をさえ赦せない感情がそうさせたのであろう。そして、イエスが死刑になることを予感したとき、ユダは自ら首を吊った。 自分の内側だけで思いを高め、そして理性を失って行動に移してしまい、結果的に後悔する。これは人間、誰もが似たり寄ったりのことだと思う。 感情は、人が人であることの証明と要素であり、素晴らしいものであるが、人が感情に支配されてしまうと感情が人を滅ぼす一面を持つ。
イエスはユダを裏切り者のシンボルとして、12弟子の中に選び置かれたのでは無いと、私はと思う。 もしかしたら、他の誰かが裏切っていた可能性さえある。 実際、弟子達の行動からしてその後、皆、イエスを見捨てている。 見捨てたことと、裏切った行為は、紙一重くらいであろう。 しかし、この紙一重の差は、実に大きい。 弱さの故に見捨てたが、ユダは積極的にイエスを売ったからだ。 ユダであっても、悔い改めへと向かうチャンスはあったし、イエスは12人を公平に見ておられたと思う。 人間は初めから、運命の糸の元に生きてはいないと思う。 運命とは人間の偏った想像の産物であるとさえ思う。 もし、運命というものを肯定するとしたら、神は人の悔い改めに無関心であるし、人間が願う明日への希望への思いは空しいのみだ。
人は決断の岐路にあって、また人生の様々な局面において、決断と選択、判断と待機、行動と思考など、いつも自分に問うている。衝動的であれ、やはり自分に有利な選択をする。普段の自分には思いもつかない選択さえするときもある。必ず、計ったようには生きていない。人間は、その思うままに生きることを許されている。
私は幾度もイエスを裏切ったし、今も従順ではない。 従順でありたいし、敬虔でありたいと思いつつ、それが出来ない。 まさにローマ7章のパウロの言葉のとうりだ。 『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。』
そして遠くない日に、神の全能のみ力によって、とんでも無い瞬間がやってくることを期待して待っている。 それは神が創造主であり、救い主であるからだ。 神は人間を尊び、いつも待っておられるし、人間は神に思いをはせ、悩みつつ、迷いつつも神への道を模索する求道者であるからだ。
イエスを殺した祭司長、律法学者たちにも、良心はあった。あの銀貨30枚は結果として公共的慈善に使われたところに彼らなりの良心をみる。 それだけをみれば、自分のことしか考えない現代日本の政治家よりも上等だ。 その存在すべて悪である人間はいない。 そして、すべて善である人間もいない。 サタンに魂を支配された人間は多い。 悪魔に魂を売り渡す人もいる。 そして救い主の元に駆け寄る魂もいる。
最後の晩餐、そこにはユダもいた。 神の忍耐と愛、そして人間の選択と自由もあった。 教会が二千年近くに渡り、晩餐式を執り行ってきたが、そこにはセレモニーにしてはならないものがある。 礼典ではなく、霊典がいい。 主の晩餐式は信徒とイエスの一体化である。 イエスのみ体と、血潮を意味するパンと葡萄の赤い水を食し飲むことは、「私」の罪のために殺されたイエスを覚えること。 そしてクリスチャン生活を通し、信仰に伴う痛みを受容してゆく決心を覚えさせられるのだ。 晩餐式は単なるセレモニーではない。 神が主人あり、人間は招かれた客でもあり、主人の意図を客は理解し、理解した上で受け取るべく設定された神が主体の信仰の食卓である。
晩餐が終わり、人間は再び世の営みに戻ってゆく。 その際、主人を裏切る客も当然ながら出てくる。 主人の憐れみに感謝しつつ帰って来る魂もある。 そして、主人は次回の晩餐のテーブルを備えつつ、渇いた魂が帰って来るのを待っておられる。