■ 義理も人情も超えた世界 / ローマ人への手紙16:1~16 (2008-02-10)
「ローマ人への手紙16章」には多くの人名が登場する。 パウロが一人一人を挙げて、人々の神への奉仕と信仰の姿勢を語る。今とは全く事情の異なる厳しい環境で、彼らは命さえ惜しまず捧げたが、伝道者や宣教師たちはそういった人たちのバックアップ無しでは使命を達することは出来なかった。 ローマ人への手紙を運ぶ仕事は一人の女性に託された。彼女の名前はフィべ、と言う。 あの危険極まりない時代に、海を渡り、はるばるローマまでの旅をしたフィべは素晴らしい信仰の持ち主であったのだろう。パウロの彼女に対する気配、心配りの言葉を読んで、いかに彼女が使徒達を支え、素晴らしい働きをしたかが伺える。 多くの名前が登場するが、やはり女性の名前が多い。今も昔も、教会とキリスト教は、それぞれの時代時代においても、女性達の献身が必要とされた。彼女達の尽力なくして、福音は届かなかったのであろうが、それは同時に、神さまが彼女達を守り、用いられたのであった。 人名が多く連なる中で、目立たない存在であるが一つの家族名がある。 「ナルキソの家の人達」と書いてある。この家の主人、また住人たちの仕事と暮らしぶりは、とてもじゃないが感心できるものではなかったらしい。売春業、略奪、実に腐敗しきった家庭だったらしいが、その家の住人の誰か、また仕える僕たちの中で、イエスを信じる人々が起こされ、なんと神の光りが差し込む家になり、彼らによって祈りや集会が持たれるまでになったとのことである。キリストの光りは、どんな環境かを選択しない。 この日本、昔は義理と人情今より、はるかに暮らしやすかった。しかし、豊かさを得た途端、人々は知らずして何かを失っていたが、失っていく過程では見落としていた。失って見て分かったのである。それらは、再びは戻らない。 今、韓国のクリスチャンに触れてみて、無くなった良さを知る。人情の厚さ、思いやり、親切、善意・・・。しかし、韓国にせよ、今は豊かな国である。すると、豊かさによって失われたのでは無いのだろう。核家族時代のせいか、そして隣は何をする人であっても、関係ないからか。もしかしたら、日本人は元々、そういった指向性を持っていたのか。 環境のせいにはしたくない。本当はみんな、淋しいのが日本人だと思う。 義理で信仰生活はできない。人情もしかり。しかし、何とも淋しい国となった。 人間関係はぎすぎすし、思いやりが消え、多くが保身的、自己中心的に生きている。 イエス様の十字架にお返しはできない。しかし、捧げることはできる。主に喜んでいただきたい。そういう思いは尊いと思う。義理も人情も超えた世界が十字架にある。 それは見返りを求めぬ愛である。犠牲を厭わぬ愛である。義理の世界には無かった愛である。ならば、教会こそ、その愛で満ち満ちていて欲しい。