■ 生きるも主、死ぬるも主 / ローマ人への手紙14:1~13 (2007-11-18)
感情、神さまが人間に与えられた大切なものである。 動物も感情を持っているが彼らは喜ぶことと怒ることだけである。つまり、私達が表現するところの「感情的になる」といった範囲だけである。 しかし、人間には情操面、つまり気分とか情動、態度、価値づけ、といった霊性を伴うものが与えられている。つまり、人は神に似せて造られたからである。 それらは人にとって必要不可欠であり、人間らしい、と言えると同時に、場合によってはマイナスな要素も生み出す。 それは、見ただけ、感じただけで、物事や人物を判断してしまうことである。
自分の価値基準で他の人を裁く。 他の人が良いと思っていても、自分の基準に適わなければ、共に喜べない。 自分が正しいと思うかどうかより、こうと決めたらと、他者が悲しもうが何を言おうがお構いなし。 私も含めてであるが、クリスチャンにありがちな固執性自己虫である。
クリスチャンが感情に悩まされる? 言い得えて妙がある、と思う。 但し、感情そのものが悪いのではない。自分の価値基準を変えられない弱さである。
あなたは他者を裁くだろうか? 誰かを(仮に心の中であろうと)批判しないだろうか? 誰かを(同様に)非難しないだろうか? 仮に言葉で言わずとも、心の中でそう感じたり、思ったりしないだろうか?
私は牧師であるが、それをしている。 すべきでないが、してしまっている。 聖霊の下に自分を置いていない証拠である。
聖書は総じて、人を裁いてはいけない。裁く方は神のみ、とある。 聖書が言うのだから、そうあるべきだ。
しかし、社会にせよ、教会にせよ、人間世界は絶えず批判、非難、裁きである。 そして、それらは悪い作用もするが、改良に向かわせる作用もする。 そこに「霊性」が介入すれば、の話であるが・・・ つまり、真摯に受け止める、好意として受けとめる、今後の反省材料にする、などと考えてみると、どうも受けて側の態度に頼らざるを得ないようだ。 と、すると、やはりこちらの言い方、態度、表情、表現方法といった部分で慎重になるべきである。 昨今の電子メールなどは特に気をつけたい。
そして同時に、私達が心しておくべきものがある。 それは、受容力である。 相手を受け入れる心の広さ、深さ、である。 これは学びによって変えられる。 素晴らしい見本がおられる。その方はイエス・キリストである。 イエス様にせよ、批判も非難もされた。当時の熱心と言われた宗教家たちに対し、歯に衣着せずされた。ある場合、宮で商売をしていた人たちの道具などを蹴散らされた。
しかし、主はそれをするに相応しい理由を知っておられたし、単に個人的感情でされたのではない。 主は生まれながらにして、ボタンを掛け間違ったことがない。 半面、すべての人間は、ボタンを掛け間違って生まれて来た。
クリスチャンは実に幸せ者と思う。 なぜなら、毎日だって、いつだって、掛け間違ったボタンを掛け直すことが出来るし、許されているからだ。 神との関係を保ち続けることが出来るのは、イエスのおかげである。