■ イエスの名によって私は立つ! / 使徒の働き3:1~19 (2007-10-28)
生まれつき足の伸びない男は、宮の門のところに置かれていた。 それは、宮詣に来る人たちからお金を恵んでもらうためであった。 彼は神殿に入れなかったし、入る必要もなかった。
私達は自分の足で礼拝に参加できる。ある教会は厳かな空気と音楽で礼拝が始まる。 またある教会は賑やかな雰囲気と賛美で始まる。 何れであれ、礼拝に座っている人たちの心が、神さまの前にあるかどうかが問題である。 体はそこにあっても、心がこの世のことで塞がれていたり、はたまたうわの空であったり・・・であるなら、置いてもらっていた、かの男性と同じであろう。
通りかかったペテロとヨハネは彼を見て立ち止まった。 そして男に言った。「私達を見よ!」 以前のペテロではなかった。以前は「頼むから、私を見ないでくれ」と心で呟くだけの男であったのに。 男は金を貰えると思って2人を見た。 するとペテロが叫んだ。 「金銀は私にはない!私にあるものをあげよう!ナザレのイエス・キリストの御名によって歩け!」・・・・・すると男は立ち上がった。そして歩いた。彼は踊りながら神を賛美した。
クリスチャンにも色々なタイプがいる。 タイプは色々でもいいが、やはり元気であって欲しい。 信仰の人生も様々、困難の中に置かれている人もいれば、やっとのこと耐えている人もいる。そしてクリスチャン故に苦しんでいる人もいるかも知れない。 でも、その人たちの神は、今日も生きておられるのだ。 ここにキリスト者の命の源泉があり、元気の源がある。 主が今日も生きておられるから、立ち上がれる。主がおられるから、今を乗り越えられる! 他に理由も理屈も無いし、要らない。
かの男性は造り変えられた。肉体だけでなく、心までも。 私達に必要な世界がここにある。 宗教をやっているのではない。思想の転換でもない。 見えない神の不思議を、現実の中で捉え、信じている。十字架に己が姿と罪を見据える。そこで、私は死んだのだ。 それは私の努力ではない。ひたすら、神の愛と憐れみのみ。そして神の知恵と力である。
昔、私はペテロと同じであった。 主が私の主であって欲しくなかった。私を造り変えて欲しい、とも思わなかった。 今のままで結構です、が私の思いであった。だが、そこで何があったか? 何もない。勝利も心からの賛美もない。生まれ変った筈なのに、生まれ変っていない生き方とは、何とも生きづらいものである。
今日の聖書の場面を読んでみて、あらためて驚かされる場面である。 男とペテロのやり取りは、ほんの1分か2分といった非常に短い時間の出来事である。 その中で、信仰とは・・・・、教会とは・・・、律法とは・・・、神学は?などの会話はなかった。 面倒臭いことは一切なかった。一番必要なことが一番先に語られた。 語る方も凄ければ、それを聞いた側も凄かった。 たった一言、「ナザレのイエスの名によってあなたに命じる!歩け!」 だが、ペテロは叫んだだけではない。彼の右の手をとって立たせた、とある。 男はペテロの信仰と命令によって、言われたとおりの行動に全神経を集中したら、彼は立ったのである。ペテロは叫んだだけでなく、その際に必要なフォロアップ、つまり「面倒をみた」のである。
私達へのチャレンジがここにある。 命令だけなら誰でも出来る。そこに神を信じきった自分がいて、不可能を可能にされる神がおられることである。 神はいつでもどこにでもおられる。信じきる者の傍らに、そして内側に。 だから、ペテロは命令できた。
残念ながら現代は喋る方も、それを聞く方も、お利口さんになり過ぎた。 だから、神さまが働いてくださらないし、働けない。 そして、人は神の英知に届かないし、遠く高く及ばない。 と、知恵も知識もない私はため息をつく。ここにも人間の浅はかな悟りが邪魔をしている。