■ 見てごらんなさい。神の慈しみと厳しさを / ローマ人への手紙11:13~28 (2007-10-14)
ローマ書11:22節、私が思うところ新約聖書における最も美しい場面が語られる。 「見てごらんなさい!神の慈しみと厳しさを。」アーメン、まことにそのとおりである。
厳しさにおいて、ユダヤ人は切り落とされた枝のようであった。彼らは律法をクリヤーできると考えた。そして出来ない自分を認めなかった。人間の限界、弱さ、その中で、神に向かい伏して赦しを乞うべきだった。神が律法において、ユダヤ人に求めたことは、そういうことであった、と思う。そして、ここに神の厳しい剪定の鋏が音をたてた。
慈しみがもたらされたのは新約時代の私たちである。 だが、多くのクリスチャンはこの慈しみに対しての感謝はあれ、もう一面の厳しさを忘れている。それは私達への慈しみの裏側に、ユダヤ人に下された神の厳しさにある。 ユダヤ人は神への契約不履行の罪において、選民、救い、という祝福の幹から切り落とされた。半面、野生種の枝である異邦人がその切り口に接がれた。ここに厳しさの故に慈しみが施されたのである。選民、契約、預言者という幹と根から吸い上げられる養分は枝へと配分され、接がれた私達へと注がれる。何と言う恵みであろうか。
異邦人がイエスと十字架の贖いを信じて救われる。当人達に対しては律法の要求すらない!イエスが律法の要求をすべて背負ってくださったからである。 そして、私達は忘れてはなるまい。切り落とされた枝は純粋のオリーブの枝であり、神はその枝を捨て置かないことを。聖書は言う。神はその枝をやがて接がれるときを待っておられると。
クリスチャンはその人生において、当然ながら実を結ぶ筈である。 だが、現実は違う。何とか信仰生活にあるのが精一杯。何故か?実を結ぶべき養分を受けているのに、実を結ぶために養分が利用されていないからだ。折角、接いでもらったのに、自分のことしか考えない。キリストの幹につながるだけで、「あなた方は実を結ぶ」と言われているのに。
私たちは成長を願う。いいや、願っている人がどれだけいるだろうか?とさえ勘ぐってしまうときがある。成長は神さまのわざだ。私たちがキリストにつながれば、神さまが成長させてくださるのだ。私たちは成長を願うべきではなく、成熟を目指すべきだ。つまり、キリスト者として、大人になることである。と、言いつつ、私の中には反抗期が残っている。ただし、すべてのクリスチャンには多少なりとも、反抗期の芽が残っていると言えるだろう。本当は、こんな芽は早く摘み取ってしまいたいのだが、中々そうは行かない。やはり、血肉にある身だからか。
切り落とされる前に何とかなって欲しい。なって欲しいと思わざるを得ないところに、本当に自分の弱さを知る。やはり、十字架の前に突っ伏して、「主よ、我が身と魂を救い給え」と叫ぶしかないのだ。慈しみの中でこそ、出会える神の愛と哀れみ。つながっているのではない。神さまに支えていただいているのだ。そうでなければ、地に落ちて、枯れ行く我が身と魂でしかない。
幸いな人よ。 悪者のはかりごとに歩まず、 罪人の道に立たず、 あざける者の座に着かなかったその人。 まことにその人は主の教えを喜びとし、 昼も夜もその教えを口ずさむ。 その人は水路の傍に植わった木のようだ。 時が来ると実がなり、その葉は枯れない。 その人は何をしても栄える。