■ それでも神は見捨て給わじ / ローマ人への手紙11:1~12 (2007-10-07)
神さまはイスラエル民族をご自身の栄光を現す器として選ばれた。 イスラエルが傲慢になり、神に背を向け、敵に包囲され助けを神に呼び求めると、神はイスラエルに救いの手を差し伸べられる。 旧約聖書はこういった記事の連続である。そこからは、神の深い慈愛と、わがままな民族と言った構図が浮かんで来るが、更に広い視野に立って考えると、「旧約聖書は神と人の壮大なロマン」とさえ感じる。
我々異邦人が、イエスを信じ受け入れることにより救われる。一方、ユダヤ人は目の前に立ちはだかる律法があり、どうしても「十字架のイエスを信じる信仰によって救われる」事実が見えて来ない。そして彼らにとっては、イエスは「躓きの石」としか思えない。 そして、殆どのユダヤ人は今も律法にしがみつき、救いの信仰に与っていない。 ならば、神は異邦人だけを救いの対象と考え、ユダヤ人を見捨てられたのか? 否!である。選民イスラエル、ユダヤ人は創造主から見るなら、愛おしくてたまらない我が子ども達という存在なのである。
パウロはローマ書において語る。 イエスをキリストと信じる異邦人の救いの完成に対し、神はユダヤ人にねたみを起こさせられた。それは、やがて彼らユダヤ人が救われる日がもたらされる目的の一環であると。 そして、救われるユダヤ人を神さまはしっかりと残しておられると。
そこで、異邦人である私は思う。神様のその熱い愛に対し、私達は何をもって創造主に応答できるだろうと。実は何をもってしても応答できないのが、神の愛である。御返しも報いも何の価値もとりえも見当たらないほど、十字架の愛は深く高い。
でも、主が最も望んでおられるかも知れないことが一つだけある。 それは、私達が神さまとの交流を更に深め、日々を共に生きたいという意識を持つことと、意識だけでなく、実行し、生活の中で主と共に生きることである。 先ず、普通の日々の中で、それも朝の10分、15分を神に捧げることである。 朝の眠気が覚めたら、新聞を読む前に、コーヒーを飲む前に、主と主のみ言葉の前に静まって出る。そしてみ言葉を待つ。心を開いて。これが最高の一日となる。最高の捧げものだと思う。 そこには主を慕い、愛する決心が伴う。主を主とする意識が伴う。この一日、神が自分の主であり、すべてにおいて助けを必要とし、すべてのすべてが主なる神である確信が伴う。
あなたも明日の朝から始めるといい。朝の15分は実に尊い。言い訳せず、続けて行き、毎朝の習慣になったらしめたものだ。あなたの人生、神への思い、信仰が変わる。実に変えられるのである。たった15分がこれほどの意味を持つと教えられるのは、その対象が神だからだ。神は必ず大きな祝福をあなたの上にもたらされる。
仮に今までがどのような生活であれ、今がどのようであれ、神はあなたを見捨てない。神ご自身が一番大切な息子を十字架に掛けて死なせることまでして、あなたの魂と人生を救ってくださるのだから。